大人の条件(前篇)
「あった!」
「ここにも!」
森の中にカミラとヘンリエッタの声が響く。
見渡す限りの白一色。
古都からほど近いブランターノの森は、晩冬の白雪に覆われている。街道からそれほど離れていない森の端でも、進むのにざくざくと足が沈み込む。
まだ誰も歩いていない新雪に足跡を付けるのが、カミラは好きだった。
カミラもヘンリエッタも後からついてきているイングリドも、足にはかんじきを履いているから、このくらいの雪なら難なく歩くことができる。
ざくざく。ざくざくざく。
探しているのは、薬の原料となる木の芽だ。
雪がなくなってから取りに来ればいいのに、と昔は思っていたのだが、イングリドに言ったら「どうして冬に来るのか考えてごらん」とだけ言われてしまった。
木の芽をめぐる争奪戦には、鹿という強力な競争相手がいることに気がついたのは、最近になってからだ。
何回も冬の森へ来るうちに、雪の中を歩くのも苦ではなくなった。今はむしろ、楽しんでさえいる。
ざくざく。ざくざくざく。
わざわざ新芽の生えていそうな木まで遠回りして、足跡で丸を描いたり四角を描いたりする。ヘンリエッタも真似をして、楽しんでいるらしい。
ヘンリエッタは、迷子の少女だ。
古都の肉屋の前でじっと立っているのを、徴税請負人のゲーアノートが保護した。
イングリドの薬店で預かるになった今も、素性はさっぱり分からない。本人も話したがらないし、イングリドも無理に聞き出そうというつもりはないようだ。
周りの大人はせめて手掛かりだけでも、と思っているようだが、イングリドは
「何か無理をしたところで、冬に花が咲くもんかね」とにべもない。
それでも、何の変化もなかったというわけではなかった。
「カミラ! 見て! 葉っぱ!」
ヘンリエッタは、前よりもよく笑う。よく食べる。よく走る。そしてよくこける。
はじめは人形かと思うほどに黙っていたことを思うと、まるで別人のようだ。多分こちらが本当のヘンリエッタなのだろう、とカミラは思っている。
夜に魘されるのがなくなればもっといいのだけど。
春の森も夏の森も秋の森も好きだが、カミラは冬の森も好きだ。
雪が音を吸い込んで、しんとした静けさが森を包み込んでいる。
どこかで、雪鴉が鳴いた。
冬の森は何故、静かなのか。まだ幼かったカミラはイングリドに聞いたことがある。
昔々、南からやって来た吟遊詩人が雪の妖精に恋をした。
数多の恋歌を歌った吟遊詩人だったが、自分が恋をするのははじめてのこと。雪の妖精の手練手管に翻弄され、持っているものの全てを差し出した。
銀細工の頭冠も、魔除けの護符も、ついには竪琴さえも。
譲り渡すもののなくなった吟遊詩人はそれでも妖精のことが諦めきれずに、この世の音の半分を与えてしまう。吟遊詩人はただの人間ではなく、音の女神の長子だったのだ。
驚いたのは雪の妖精だった。どれほどの財を積まれても、意に染まぬ相手を添うことはできない。それでも、与えられたものを返すことができない。それが妖精の定めだからだ。
以来、雪が降ると世界の音の半分は妖精のものとなり、静寂に包まれるようになった。
失意の吟遊詩人は南に帰ったとも、そのまま森の中を彷徨っているともいう。
そんな莫迦な恋をする人がいるものだろうか、と話を聞いたカミラは思ったものだ。これはあくまでも昔話だから、本当にこんな人間がいるわけではないと分かっていても、滑稽だなと思ってしまう。
「カミラ、そっちは大丈夫かい?」
薬草園の方から、イングリドの声が聞こえた。
「はーい」
返事をしながら、ヘンリエッタと腰に吊るした合財袋の中身を見せ合う。木の芽の量はこれだけあれば十分だ。
「さて、そろそろ行こうか」
薬草園の様子を見に行っていたイングリドが合流する。森の一角を柵で囲って、小さな畑のようにしているのだ。今の時期はまだ何も芽吹いていないが、土の下には薬草の球根や根茎、種が植っている。
冬の間に鹿や猪に食い荒らされないようにいろいろと呪いを施してあるが、そんなものは気休めに過ぎない。だからこうして、定期的に見回りに来る必要がある。
「畑は?」
「ああ、敷き藁の下の春待芽がもう萌えそうだったよ」
春待芽の名前を聞いて、カミラの口の中にほろ苦い味が広がった。居酒屋ノブでテンプラにして食べると、滅法美味しいのだ。
荷物を載せた橇をカミラとヘンリエッタの二人で引く。目指すのは、ブランターノ男爵の狩り小屋だ。
今日はそこで一泊する。
無理をすれば陽のあるうちに古都まで帰れないこともないのだが、まだ幼いヘンリエッタもいることだから、大事を取ることにしたのだ。
狩り小屋は貴族たちを迎えて接待にも使う立派なもので、〈馬丁宿〉通りにあるイングリドの薬屋よりよほどしっかりしている。イングリドは男爵から合鍵を預かっていて、冬の間は自由に使うことを許されていた。
一度、男爵夫人の疝痛を治したことから、全幅の信頼を寄せられているらしい。
高床になっている小屋に入ると、柔らかな木の香りがする。
使用者が記名する宿帳を捲ったイングリドがへぇ、と声を上げた。
「なんだ。妙に綺麗だと思ったら、昨日クローヴィンケルの爺様が泊まってたのかい」
クローヴィンケルと言えば、ノブの常連の一人だ。
少し前に東へと旅に出たという噂をカミラも聞いていたが、この辺りへ戻ってきたのだろう。
「あの爺様が綺麗好きで助かったよ。さ、はやく火を熾して温まろう」
片づけをする手間が省けた、とイングリドが笑った。火を熾すのは、カミラの仕事だ。ヘンリエッタにはまだ、任せられない。
ヘンリエッタは、妹のようなものだ。
エーファという親友がいて、ヘンリエッタがいる。
森の中でイングリドと二人きりで暮らしていた時とは、生活そのものが違うのだ。
そうだ、ヘンリエッタに火の付け方を教えてあげよう。
これで結構、コツが要るのだ。
顔を上げ、目があった時、ヘンリエッタがぽつりと呟いた。
「私のお父さん、悪い人なの」




