いつもそばにあるもの(前篇)
招かれたのは、街の小さな居酒屋だった。
夕暮れの〈馬丁宿〉通りは、冬だというのに活気に満ちている。
雲間から射す西日に苛烈さはなく、やがて来る春の序曲のようにやわらかだ。
街並、露店、そして何よりも、人々の顔。
グロッフェン男爵の目には、古都の街並は何もかもが新鮮に映る。
土地の痩せた男爵領では、いずれもお目にかかれないものばかりだ。
「ここじゃ、ここじゃ」と案内してきてくれたエトヴィン助祭が店を指す。
厩に繋がれた馬の嘶きや人々のざわめきを掻き分けるようにして辿り着いた居酒屋は、異国情緒溢れる佇まいの店だった。
ただの居酒屋ではあるまいと、男爵は見当を付ける。
思わず身構えてしまったのは、扉に使われている硝子もさることながら、木材の質が高い。
貴族の端くれとして、高価な品々の相場はおおよそ心得ているつもりだが、居酒屋の材に軽々に使うようなものではない。木の種類までは分からないが、異国の品であろう。
やはり、単に招かれたというよりも、別の意図があると見た方がよいのだろうか。
謀殺。脳裏を過る言葉を、必死に振り払う。
男爵が警戒するのも、故無き事ではない。
グロッフェン男爵、バルタザール・ヘムレンゼン。またの名を〈河賊男爵〉という。
自分自身が河賊を率いているわけではないが、この名前に怨みを持つ者も少なくはない。
酒宴での謀殺という古式ゆかしい方法を使いそうな人物からの招待ではないが、全く緊張しないと言えば嘘になる。
頭上を舞う冬烏の、細く嗄れた声が響いた。
いや、あるいはここで討たれるのも一興だろうか。
最愛の妻はもう亡く、髪は銀に染まった。
古都は運河の話でもちきりだが、そのことがグロッフェン男爵領に与える影響を思えば、先を見ずに済むのならば、という気も沸き起こる。
エトヴィンは慣れた様子で引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
気持ちのよい歓迎の挨拶が響く。
店内の思わぬ温かさに、バルタザールは自分の身体が冷え切っていたことに気が付いた。
微かな自嘲の笑みが、口元に浮かぶ。
自分ではいつ死んでもよいようなつもりになっていた筈が、寒さにさえ気付かぬほどに緊張していたのだ。
「お待ちしていた」
テーブル席に座を占めているのは、金髪の青年だ。
サクヌッセンブルク侯爵、アルヌ・スネッフェルス。
帝国成立期にまで遡る血筋で、帝国北方最大の領地を有する諸侯の一人。
そのアルヌが場末の居酒屋に腰を落ち着けているのが何とも不釣り合いに見え、バルタザールの頬が緩んだ。
表情の変化を好意的に受け取ってくれたのだろうか。侯爵は自分の向かいの席をバルタザールに勧めてくれた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「これまで正式な場ではお目にかかる機会のなかったのを、愧じておりました。ご足労いただき、ありがとうございます」
挨拶の所作はバルタザールの目から見ても洗練されている。
とても吟遊詩人を目指して二年間も領地を放り出していた人物には見えない。
社交界の噂など当てにならぬものだ、と人物評を改める。
〈河賊男爵〉などと仇名される自分と較べるのは失礼だが、サクヌッセンブルク侯爵にも、色々と噂があった。
聞こえてくる噂ではとんでもないうつけで遊侠の無頼で、弟の方がよほど侯爵に見えるという話だったが、そんなことはない。バルタザールの目の前に座っている若者が侯爵に相応しくないというのであれば、帝国には公爵も侯爵も一人もいないということになるのではないか。
「お通しの、鮭の唐揚げです」
この店の流儀なのか、注文する前に料理が運ばれてきた。
カラリと揚がった魚が、食欲をそそる。
そう言えば、腹が空いていた。いつもならば早朝の祈祷が終わった後に軽く食事を摂るのだが、今日は緊張でどうしても食指が動かなかったのだ。
フォークを使い、口に運ぶ。
ざくり。
じわりと、脂の乗った魚の味わいが口に広がった。
これは美味い。
許されるならエールが欲しいものだが、と隣を見ると、陪席しているエトヴィンは、当たり前のように酒杯を傾けている。
聖職者らしからぬ飄々とした爺様だと思っていたが、この会合が私的なものだということを示しているのかもしれない。
堪らず視線で確認すると、アルヌはにこりと微笑む。
「済まない、こちらにエールを一杯」
「はい!」
元気よく応じた赤毛の少女は、エーファというらしい。
古都は豊かだと思っていたのだが、こういう幼い子も仕事をしているのだ、と気付いた。
グロッフェン領では、この年頃の子は皆、額に汗して働いている。
貧しさは、悪だ。
そんなことを考えている内に、エールが運ばれてきた。
ジョッキも、引き戸と同じく硝子だ。
我慢できずに、よく冷えたジョッキを口に運ぶ。
ぐびり。
ぐびり、ぐびり。
サケの脂をエールの微かな苦みがさっと洗い流していく。
喉越しが、実に心地よい。
アルヌを前にして抱いていた僅かな不安も、躊躇いも、一緒に飲み下されていくようだ。
残りのカラアゲも、口へ放り込む。
そこへ追いかけるように、エール。
ぐびり、ぐびり、ぐびり。
口の中に幸せが広がる。
亡き妻にも、食べさせてやりたかった。




