【閑話】恋煩いは万病のもと(前篇)
〈四翼の獅子〉亭で下働きをしているシモンが寝込んだのは数日前のことだった。
軽い発熱だけかと思われたが、無理をして働こうとして、ばたりと倒れ込んだのだ。
これにはパトリツィアも驚いた。
同郷のパトリツィアが記憶している限り、村にいた頃のシモンが体調を崩したことはない。
川に落ちようが深秋の山で一晩を過ごしても、びくともしないと言われていた。
頑健さが取り柄で古都に就職先を斡旋してもらったほどだから、寝込むのは本当に珍しい。
ちょっとした風邪だろうと本人も周囲も甘く見ていたのだが、あれよあれよという間に病は篤くなり、薬師を呼ぶ羽目になってしまった。
〈馬丁宿〉通りで最近高名になりつつある薬師のイングリドが招かれ、治療に当たる。
薬草の匂いの漂う部屋で、パトリツィアは志願して看病に参加させてもらった。
シモンが倒れて慌てたのはリュービクだ。
流行り病だとしたら、とんでもないことになる。
「流行り病だって? 過労だよ、過労」
イングリドは違うと断言したが、もしも流行り病だったら堪ったものではない。
幸いにして帝国北部はここ数十年ほど流行り病の記憶からは遠ざかっている。
だが、恐ろしさについて知らない者はいなかった。昔語りに語られる悪疫や疾病の話は皆の記憶に残っている。
古都でも有数の高級な宿である〈四翼の獅子〉亭は客も高い身分の人間が多い。
万が一にも伝染すれば、大変だ。
普通ならここでシモンのような従業員を放り出して終わりにする店も少なくない。
働けない人間、それも病に臥せっている人間を置いておくのは、よほどの篤志家か、敬虔な人間だけだろう。
しかし、古くから言うように人の口に城壁は立てられない。だから、放り出した従業員は恐らく自分が今寒空の下で凍えている理由を誰かに伝えたいという衝動を堪えきれなくなるはずだ。
そうなると、選択肢は限られてくる。
店で飼い殺しにするか。
あるいは口止め料を払うのか。
噂の届かないどこか遠くへ放り出すという手もあるだろう。
口封じまでするかどうか。それは店の責任者がどれだけ優しいか、あるいは目端の利く人間か、という点にかかっている。
もちろん、リュービクは別の方法を選ぶことにした。
つまり、シモンをゆっくり休養させることにしたのだ。そうすることが当たり前だと思ったし、他の選択については想像さえしなかった。
基本的に厨房の中で育ったリュービクは、人を冷酷に扱うということを知らなかったのだ。
とは言え、噂になるだけでも厄介だということで、店を臨時休業にした。
パトリツィア達は不意の休みを喜んだが、すぐにがっかりする羽目になる。流行り病を恐れての休みだから、外へ出歩けないのだ。
外出できないからと大掃除をしてみたものの、普段は掃除の手の行き届かないところまで丁寧に拭き掃除しても、時間が無限にかかるわけではない。
そもそも〈四翼の獅子〉亭は、一流の宿だ。滅多に掃除しないところ自体があまりなかった。
暇を持て余すと自然に噂話が盛り上がる。
そこで急遽、屋根裏の女中部屋で開催されたのが、宴会だ。
宴会と言っても大したものではない。
出てくる料理は厨房からこっそり失敬したものや小遣いで買ったお菓子が中心だし、お酒自体が舐める程度にしか集まらなかった。
当然、階下でいつも自分たちが給仕している宴会とは較べるべくもない。
それでも、宴会は宴会だ。
ひっそりと寝静まった深夜の〈四翼の獅子〉亭の屋根裏で、蝋燭の灯りを囲んで、布団を被った女中たちが噂話を肴に酌み交わす。
話は多岐に渡ったが、そこは世間知らずな女中たち。すぐに話題は底を尽いた。
必然的に、今回の休業の原因であるシモンのことへと話は及んだ。
「お金のためらしいよ」
蝋燭灯りの下で毛布を被った同僚の言うことには、シモンは無理をして貯金をしていたらしい。
先輩従業員たちの仕事や残業を肩代わりして、人の二倍も三倍も働いてまで小銭を稼ぐ。
寸暇を惜しんで働くシモンは睡眠時間も削っていたそうだ。
それどころか有料の賄いまで断って、銀貨一枚銅貨一枚まで無駄にせずにせっせと貯蓄に励んでいたのだという。
「何のためにそんなにお金を稼ぐんだろ?」
調理場からくすねてきた堅焼きのパンを齧りながら、パトリツィアが当然の疑問を口にした。
お金が必要なのは、誰も同じだ。
ただ、そんなに必死に稼がねばならないほどにシモンが金に困っていたようには見えない。
もし何か理由があるなら、相談してくれればよかったのに、と少し思う。
パトリツィアもそれほど余裕があるわけではないが、貯えがまったくないというわけではない。
〈四翼の獅子〉亭は気前がいいというほどではないが、給金は少なくないのだ。
身なりを整えて少し余りがあるくらいの稼ぎは、パトリツィアにもある。
同郷の誼で少しくらいなら融通しないでもない。
いったい、何にシモンは金を使おうというのだろうか。
「ここだけの話だけど」
とっておきの秘密を打ち明けるように、同僚の一人が声を潜める。
女の子たちは興味津々で顔を寄せた。
「……結納金、らしいよ」
結納金。
その言葉を聞いて、パトリツィアは憮然とした。
結納金というのは、結婚を申し込む時に男の側が女性の家族に支払うお金のことだ。
古都の辺りでは最近は必要ないことも多いそうだが、パトリツィアの実家の辺りでは必ず支払う仕来りになっている。
「誰に?」
宴会の参加者全員の聞きたいことを、誰かが尋ねた。
しかし噂を持ち込んだそばかすの女中はやれやれと首を振る。
「それが分からないのよねぇ」
どうやら相手までは突き止めきれなかったらしい。周囲の期待が落胆に変わる。
自称情報通ということだったが、まぁこんなものだろう。
それよりも、気になるのはシモンのことだ。
パトリツィアは失望した。そしてと呆れてもいる。
彼女には恋愛のことはよく分からない。
真面目に厨房付きの女中としてただ働いてきた。
職場の環境に不満はない。
だが、同郷の先輩であるシモンのことについては、人一倍敏感であった。
あの日、あの時、居酒屋ノブへ誘ってくれたのは何だったのだろうか。
不思議と裏切られたという気持ちは湧いてこなかった。
ただ、この状況を何とか打破しなければならないという激しい情動のうねりが、パトリツィアの精神と肉体とを支配している。
だから、行動に出ることにしたのだ。




