経糸と緯糸と(後篇)
「お供します」
さて、どこへ行くのだろうか。候補がなければ、ニコラウスに腹案があった。
しかし、無用な心配だったようだ。
「居酒屋ノブが昼営業をはじめているらしいですね。今日はそこへ行きましょう。」
教会の暦にはそろそろ〈水、温む〉だとか〈蛙、穴から出る〉と挿絵付きで描かれている。
しかし気候は年によって違うもの。
今年は冬の女神が頑張っているようで、春の先触れはまだ感じられなかった。
溶け残った朝の霜の感触を、マルセルが子供のように靴先で楽しんでいる。
「早く春になるといいですねぇ」とマルセルが呟いた。
「まったくです。洗濯物が乾かなくて困りますからね」
古都では洗濯物を地下に干すが、冬の間は乾きが悪い。
「ああ、とてもよくわかります」
マルセルは織物ギルドの出身だから、冬場に水を使うことも多かったのかもしれない。
同意する声にも深い同意が感じられる。
結果から言えば、二人が辿り着いたときには居酒屋ノブの昼営業は終わっていた。
余程期待していたのか、マルセルががっくりと肩を落とす。
「私が二十五人も面接したからですね」
申し訳なさそうにいうマルセルだが、そんなことはないとニコラウスは否定した。
二十五人というのも、事前に書記が面接して絞った人数だ。
本当はもっと多くの人間が陳情に来ている。
単なる利益誘導が目的の連中や何を言いたいのか分からない人々にはニコラウスたちが事前にお引き取り願っているが、それでも二十五人までにしか絞れなかったのだ。
何か声を掛けようとニコラウスが逡巡していると、硝子戸が内側から引き開けられた。
「あれ? ニコラウスさんとマルセルさんじゃないですか」
ひょっこりと顔を出したのは、シノブだ。
「ああ、昼を食べに来たんだけど、ちょっと出遅れちゃってね」
「夜の仕込み中ですけど、食べていきますか? 簡単なものしかできませんけど」
申し訳なさに後ろ頭を掻くニコラウスに、シノブがにっこりと微笑む。
「それはありがたいですね。お言葉に甘えましょう」
「ニコラウスさんは、彼らのことをどう思いましたか」
料理の出てくるのを待ちながら、マルセルが唐突にニコラウスに尋ねた。
カウンター席に座っていると、鶏肉を焼くいい匂いが漂ってくる。
「そうですね。こういう席だからはっきり言いますが、議長が直接会う価値のない人もいたように思います。時間の無駄です」
マルセルはくつくつと笑った。
「そうですね、私もそう思います」
意外な答えに、ニコラウスはマルセルを見返す。
茶目っ気のある笑みを浮かべ、マルセルはお湯の入った硝子杯を両手で弄んでいた。
「お待たせしました、まずはねぎまです」
シノブの運んできた皿には、串に刺した鶏肉と長ネギが交互に並んでいる。
「これこれ、私はヤキトリに目がないんですよ」
すいませんね、仕込み中なのに、とマルセルが礼を言うと、
「以前、随分とお気に召しておられたようですから」とタイショーが笑った。
さぁ、ニコラウスさんも、とマルセルに勧められて、一口。
鶏と、ネギ。
こんなに合うものだったのか。
タレが実にいい具合に絡んでいて、思わずにやけそうになる。
少し焦げ目のついたネギは、香ばしさの後に、しっかりと火の通ったネギ特有の甘さがとろりと口の中に広がるのが実に嬉しい。
「私は古都の生まれですが、この長ネギに目がないんですよ」
本当に嬉しそうに、ほふほふとマルセルがネギマ串を頬張る。
タイショーはこちらの食べる具合を見ながらヤキトリを焼いてくれているようだ。
絶妙なタイミングで、次の櫛が運ばれてくる。
「皮の塩です」
「砂肝です」
「つくねのたれです」
シノブが次々と運んでくるヤキトリを、無心になって頬張った。
パリッパリの皮からじゅわりと滲む脂。
コリコリとした食感が病みつきになるスナギモ。
食べ応え満点で鶏肉の実力を再認識させられるツクネ……
「……うう、ここにトリアエズナマがあれば」
ニコラウスの本音に、マルセルがあっはっはっといい声で笑った。
「奇遇ですね。私も全く同じことを考えていたところですよ」
食べ終えた串を、マルセルが縦と横、交互に並べていく。
「私は議長に向いていないと思っていました。今もそれほど、向いているとは思っていません」
ぽつりぽつりと呟くように話すマルセルの言葉。
一言も聞き逃さないようにしようと、ニコラウスは耳を欹てる。
「実を言うと、大市の鐘を鳴らす時に失敗しましてね。本当はもっと上手く鳴らすつもりでした」
鐘のことはニコラウスも何となく憶えていた。
確かに、変な鳴り方をしていた気がする。
「あれで、いい意味で吹っ切れました。誰がやっても、鐘を鳴らすのが少々へたくそでも、大市の祭りははじまるんです」
マルセルが縦に横にと組む串の本数が増えていった。
「誰がやっても同じだと考えた時に気付いたんですよ。古都の市参事会議長になるために生まれてきた人間はいないんだ、ってね」
言われてみればその通りだ。
誰も、何かに挑戦するときに、完全に準備が整っているわけではない。
ニコラウスは、仕込みをしているハンスの横顔をちらりと盗み見た。
そうだ。硝子職人の息子として生まれ、衛兵として職を得ていたハンスが、今はこうして立派に居酒屋の厨房に立っている。
向いていないと言われながらも織物ギルドの人間が市参事会の議長をやってもいい。
「織物はね、経糸と、緯糸でできているんです」
ああ、とニコラウスは納得する。この串は、経糸と緯糸なのだ。
「経糸だけでも、緯糸だけでも、織物はできません。両方あってこその織物です。美しい模様も、どちらかが欠ければ、崩れてしまう」
そう言って、組んだ串からマルセルが一本の櫛を引き抜く。
「古都の水運を変える事業は、大きな織物です。一本一本の糸が大切です」
「運河は、理屈だけでは通らないということですか?」
ニコラウスが問うと、マルセルは口元だけで笑った。
「理屈と、感情と。大きな事業にはどちらも大切です。織り手にできるとことは、経糸も緯糸も、見逃さないようにすることだけです」
だから、莫迦莫迦しいと思っても、会えるだけの人間に会っておくのだ。
マルセルの笑顔は、ニコラウスにそう言っているように見える。
「明日からの陳情者、選び方を変えてみます」
「よろしくお願いします。古都の水運を変えるためには、必要なことです」
ニコラウスの肩を叩くマルセルの手は、どこまでも優しかった。




