経糸と緯糸と(前篇)
二十五人。
古都市参事会の議長を務めるマルセルが、午前中に合わなければならない人数だ。
書記業務の応援に駆り出されているニコラウスは、参事会政庁の廊下に並ぶ人々の横顔を見て、小さく肩を竦めた。
今朝はまた、一段と寒い。
窓の外は霙交じりの雨が降り、鼠色の雲が低く垂れこめている。
石造りの政庁に隙間風はないが、床から這いあがってくるような寒気はなかなかにつらかった。
廊下に並べられた丸椅子に座る人々には身分も身なりも、統一感というものがない。
ギルドに属する商人がいるかと思えば、遍歴の職人もいる。
封臣貴族の姿こそ見えないが、騎士も傭兵も農民も、路上に暮らす者の姿さえあった。
持つ者も、持たざる者も、ここでは等しく列に並んでいる。
掌を擦り合わせたり指先に息を吹きかけたり、隣の人と声も低く情報交換をしたりと思い思いに過ごしている。
ニコラウスの見るところ、こちらの様子をちらちらと窺っているのは、金のある連中だ。
貧しい人々は黙って床を見たり、思い出したように顔を上げては溜息を吐いている。
彼らの目的は、一つ。
陳情、陳情、陳情。
運河の浚渫が本決まりになったと知った途端に、古都とその周辺のありとあらゆる人々が、少しでも利益を得よう、不利益を被らないようにしようと市参事会の政庁に押しかけているのだ。
莫迦莫迦しいことだとニコラウスは思う。
ここに並んで上目遣いに書記達の表情を窺う連中は、随分前から運河浚渫の耳にしていた人々がほとんどのはずだ。
荒唐無稽な話だと嗤って出資の話は断っていた癖に、いざ話が本決まりになると我も我もと参上して、利益の分配に嘴を突っ込もうとする。
機を見るに敏、と言えば聞こえはいいが、要するに風見鶏ということだ。
勝ち馬に乗り、負け犬は叩く。そういう生き方は、ニコラウスの趣味ではない。
「なぁ、その書記くん」
声を掛けてきたのは、毛織物商人の一人だった。
最後にやってきたから、並んでいるのも当然最後尾だ。
椅子の用意は二十四しかなかったから、彼だけは所在なさげに立っている。
「何でしょうか。お手洗いでしたら、そこの角を曲がって真っすぐ、突き当りを右手です」
「ああいや、トイレはいいんだ。ところで私は昔、議長のマルセルとは随分と懇意にしていてね。ひょっとすると彼も……まぁ、旧交を温めたいと考えているかもしれない」
要するに順番を早めてくれないか、という「お願い」だった。
それを聞いて、毛織物商人より先に並んでいる人々が一斉にニコラウスと彼の方をぎろりと睨みつける。居並ぶ人々の無言の圧力に、さしもの毛織物商人もおずおずと列に戻った。
当たり前だ。一番先頭の鉱石商人は昨日の受付が終わった直後に並び始めたと聞いている。
この寒い季節に徹夜で並ぶなど正気の沙汰ではないし、何か事故があっては困るからと、衛兵が追い返したのだ。
それならば、と今朝もまだ雄鶏が時を作る前に並びはじめたという剛の者だった。
コネや金、その他のもので順番を少しでも早めようとする連中は後を絶たないが、ニコラウスは淡々と処理するだけだ。
列に並ぶ人々に、衛兵隊のヒエロニムスが木の椀を配っている。
中に入っているのは、白湯だ。
衛兵隊の会計である彼も、市参事会の要請で空いている時間だけ駆り出されている。
とにかく、陳情が多過ぎるのだ。
これまで市参事会は議長書記を増やすことを渋ってきた。
マルセルは議長就任以来、秘書と法律の専門家、簡単な事務を任せる者の雇用を、ずっと議会に諮ってきた。
一笑に付されてきたのは、前任者のバッケスホーフに必要なかったのだから、という何の意味もない理由だった。
運河の浚渫の一件で忙しくなり、議長の管掌する仕事にも支障を来たしはじめたことで、何とか一名、新人を雇用することができたのだ。
その新人は今研修中で、色々と仕事を仕込まれている。
主に旧バッケスホーフ派の議員にとって、市参事会とは古都の様々な利益を調整するための組織でしかなかった。
主体的に市参事会として動くのではなく、誰かが動いた後に追認したり揉め事を解決したりするための話し合いの場に過ぎなかったのだ。
ところがここ数年、市参事会は市参事会の意志で活動するようになっている。
近隣で最も力を持つサクヌッセンブルク侯爵家との蜜月関係にも後押しされ、参事会が参事会の本来の仕事をすることができているというのは、多くの人にとって望ましいことだ。
ニコラウスの雇い主である〈鳥娘の舟唄〉のエレオノーラも現状には大いに満足している。
変化は、利益をもたらす。
特に古都のように停滞の長過ぎた街にとって、変化は大きな後期に他ならない。
「お待たせしましたね。はじめの方、入ってください」
議長執務室の中から声が掛かり、鉱石商人が立ち上がる。
大きな樫の扉を押し開けて、ニコラウスは商人と一緒に執務室へ足を踏み入れた。
誰が何を言ったか言ってないか、証人となるのがニコラウスの仕事だ。
「水深だ」
伝説に語られる鉱精のような商人は、大きな羊皮紙を広げながらそう言った。
「水深ですか」
眼鏡を掛けたり縁の上から覗き込んだりしながら、マルセルが尋ねる。
「鉱石は重い。運ぼうと思えば相応の喫水が必要となる」
喫水とは、舟の底から水面までの距離のことだ。
鉱石や木材のように重いものを運ぶ舟では一般に舟が大きく沈み込むから、繋留する港はそれに応じて深くする必要がある。
鉱石商人の要望では、古都を流れる河と同じだけの水深がなければ、運河事業は失敗するということだった。
一度港を開港してしまえば基本的に岸壁をより深くするということは難しい。だから、開業前に運河をより深く浚渫することが、鉱石商人にとっては死活問題となるようだ。
「なるほど。今日は足を運んでいただき、ありがとうございます。既に岸壁の深度に関する同様の陳情は他の商人ギルドからも頂いております。鉱石商人ギルドさんも今の古都の岸壁と同じ程度の深さがあれば問題ないということですね」
マルセルの言葉に、商人は深々と頷く。
無茶だ、とニコラウスは思う。
岸壁を深くするということはそれまでの運河も同程度かそれ以上に深くしなければならない。
そもそも、鉱石商人ギルドと言えば今の古都の岸壁でさえ文句をつけていることで有名なのだ。
少しでも浅ければ文句を言ってくるに違いない。
「参事会としては、ご意見に感謝します。可能な限り、真摯に対応します」
そう言ってマルセルは鉱石商人のごつごつとした手を、力強く握った。
ニコラウスの見ている前で、マルセルは次々と陳情者を納得させる。
適切な陳情には深く頷いて見せ、無茶な要望や強請りまがいの話は、毅然と突っぱねた。
専門家に尋ねなければ分からない専門的な問題については素直に分からないと詫び、後日改めて会見する時間をニコラウスに書き留めさせる。
ニコラウスは、素直に感心していた。
マルセルというこの小柄な議長は本来、中継ぎとしてしか期待されていなかったのだ。
現役議長であるバッケスホーフの逮捕という異常事態に対して、ほとぼりを冷まし改めて新しい議長を選ぶまでの、取り敢えずの議長。
どこの派閥の息も掛かっていないから、どこの派閥からも反対が出なかった。
そういう消極的な理由で選ばれた、温順なだけが取り柄の議長、だったはずなのだ。
ところが、蓋を開けてみればどうか。
書類仕事も交渉事にも一所懸命に取り組み、賢明ではないにせよ、真摯に取り組む。
この陳情も、並ぶ人間が後を絶たないのはマルセルと話せば、解決しないまでも漸進しているという何かしらの安心が手に入るからなのだろう。
「そういう訳でマルセル、まぁよろしく頼むよ」
「はいはい、検討しておくよ」
先ほどの毛織物商人も、マルセルとの面談を終えて機嫌よく帰っていく。
特に何かを約束したわけでも、これといった言質を取らせたわけでもない。陳情とは、こういう面があるのかもしれない。
「さて、ニコラウス」
「あ、はい」
ニコラウスは自分の名前をマルセルが憶えていることに微かに驚きを覚えた。
直接名乗った記憶は、二度しかない。しかも一度は、衛兵として、だ。
この人はいったい、何人の名前を憶えているのだろうか。
「昼食にしましょう。今日は外で」




