密偵とサラダ(後篇)
「マッシュポテトではありませんか。これならば古都に来る前にもよく食べましたよ」
ジャンの目の前に盛りつけられているのは、どこからどう見ても何の変哲もないマッシュポテトだ。ここまでの二皿は見たこともない皿が続いていただけに、ジャンも落胆が隠せない。
これならば、ただ生野菜に塩でも振った物が出てきた方がいくらかありがたいというものだ。
ジャンの見るところ帝国人の馬鈴薯好きは常軌を逸している。
前の任地である連合王国から帝国へと旅をしてきたが、行く先々で親の仇のように盛りつけられたマッシュポテトを毎日見せつけられ、さすがに飽き飽きしていたところだった。
「いいえ、これはポテトサラダです」
「名前を変えても中身は同じでしょう。そういう欺瞞を私は好みません」
大方、最初に見栄を張って何皿もサラダを出せるなどと息巻いたからこういう真似をしているのだろう。
せっかく見直しかけた古都の評価も地に墜ちようという物だ。
「そうじゃないんです。騙されたと思って、一口食べてみて下さい」
「……強情なお嬢さんだ。そこまで言うのなら一口だけ食べてみましょう。ただ、これだけは言っておきますがね」
口に入れた途端、予想外の味に言葉が止まる。
何とも言えないクリーミィな味わいと、微かな酸味。予想していた馬鈴薯の味気なさはどこへやら、これは確かに全くの別物だった。
「はい、これだけは何ですか?」
首を傾げる給仕の娘に返す言葉もなく、ジャンは小さく咳払いをする。
確かにマッシュポテトとは違う。何か混ぜているのだろうが、それが何なのかは分からない。
彩りとしか思えなかったニンジンやキュウリもいい仕事をしており、確かにこれはサラダの名を冠するに相応しい一皿である。
「お嬢さんの言う通り、これはマッシュポテトではないようです。疑ってすいませんでした。お詫びします」
「いいんですよ。マヨネーズをたっぷり使うと、マッシュポテトとは随分違った味になりますもんね」
「マヨネーズ?」
「はい。卵黄と油と酢を混ぜた調味料です。美味しいですよ」
聞き慣れない名前にジャンが問い返すと、給仕の女はにこやかに説明しはじめた。警戒心という物がないのだろうか。
「なるほど。そういう調味料は聞いたことがありませんでした。勉強になりますね」
「そうですか。それは良かったです。そう言えば、ポテトサラダはこうするともっと美味しくなるんですよ」
彼女が取り出したのは小振りな木製のソルトミルだ。
中に入った岩塩を削りながらかける調味料入れで、東王国でも広く使われている。古都にもあるとは驚きだったが、一体何をしようというだろうか。
今食べたポテトサラダに岩塩を足してみたところで、劇的に味が良くなるとは考えにくい。
ぼんやりとそんなことを考えながら給仕の手付きを眺めていたジャンだが、一つ奇妙なことに気が付いた。
振りかけられている岩塩が、黒いのだ。
いや、あれは岩塩ではあるまい。
ジャンの属する奇譚拾遺使の集めた話の中に、色の付いた岩塩の話もあった。だがそれは薄桃色などの淡い色に限られる。
では、一体あの黒い粒は何なのか。
「さ、召し上がって下さい」
もう一度仕切り直しのつもりでジャンはポテトサラダに向き合う。
念頭にあるのは先程の味だ。そことの差から、あの黒い粒が何かを探り当てる。そのつもりで、ジャンは匙を口に運んだ。
「……えっ」
広がったのは予想外の刺激、辛さだ。それも塩の辛さとは違う。
もっと刺激的で、ポテトサラダ全体の味をきりりと引き締める味。
この味に、ジャンは覚えがある。
「まさか、胡椒か」
「はい。ちょっとかけるだけで味がぐんと引き締まると思いません?」
味が良くなる? 引き締まる?
当たり前だ。今でこそ多少値が下がった物の、胡椒と言えば一頃は同じ重さの金銀と交換されるほどの価値があった。
それを肉ではなく、気軽にサラダに使うというのは何たる贅沢か。
美味い。悔しいが、それは認めなければならない。
金がかかっているから美味く感じるのではなく、ポテトサラダには胡椒が会うのだ。それが分かるだけに、なおのこと恐ろしさが募る。
古都では胡椒を日常的に使えるだけの財力があるということだ。
恐らくは市参事会に連なるような大商人が一括して胡椒を輸入し、そのおこぼれが市井にまで行き渡っている。
そんなことができる街は、少なくとも東王国には存在しない。
「これは驚きました。ポテトサラダというのは実に美味しいものですね」
「はい! 馬鈴薯もこれなら美味しく食べられると思うんです」
当たり前だ、と毒づきそうになるのをジャンは必死に堪える。
この居酒屋を出たら、すぐにでも宿を引き払って東王国に戻らなければならない。調べるべきことはまだまだあるが、それよりも今は速報性が重視される。誤った決断をすれば、取り返しがつかなくなる恐れがあった。
帝国北方のいくつかの領邦を分離させる工作についても、考慮し直さなければならないだろう。彼らが独立したいのなら好きにすればいいが、そこから東王国の匂いは完全に消してしまわなければならない。
代金を置いてさっさと席を立とうとするが、給仕の女と店主が何かを話し込んでいるのが耳に入った。
「タイショー、あんなに美味しそうに食べてくれたんだから、もう一皿くらい出しちゃいましょうよ」
「出すって、何を。サラダ三昧としては中々いい取り合わせだと思うけど」
「サラダじゃなくてもいいと思いますよ。サラダ風なら」
「サラダ風ならって…… あ、駄目だ駄目だ。あれは俺の晩酌用だからな。高かったんだから。ノルウェー産だぞ」
「いいじゃないですか。ケチケチしないで、ほら」
あれ、とは何なのか。
奇譚拾遺使として培われた飽くなき好奇心がジャンをカウンターにとどまらせる。胡椒を惜しげもなく使う店のとっておき。
これが気にならなければ、御伽衆を名乗る資格は無い。
「お待たせいたしました!」
ジャンの目の前に運ばれてきたのは、薄く切った何かの肉だった。
ひょっとすると魚の肉かもしれないが、見ただけでは分からない。
ソースに絡めてあるのは、南方の聖王国の料理にも似ている。
「カルパッチョです」
胸を張って給仕が料理名を告げるが、何の肉かまでは口にしない。
食べてみろ、ということだろう。フォークで刺すのも躊躇われたので、指で摘まんでそのまま口に含む。
柔らかい。
獣の肉とは思えない柔らかさだ。微かに血の匂いを感じるが、臭いというほどではない。思わず二切れ目を口に放り込む。
噛んでいるか溶けているのかわからない。こういう肉が、あったのか。
給仕の方を見ると、面白そうにこちらの様子を見つめている。
その目には、何の肉か当ててみろという挑戦的な光が宿っていた。
「柔らかいな、この肉は」
それだけ口にして、何の答えにもなっていないことをジャンは恥じた。
これまでに色々な肉を食べてきたが、似ているものが思い当たらない。
牛、豚、羊、鶏に馬。
そのどれにも似ていない肉を、どうやって手に入れたというのだろう。
「降参ですか?」
「ああ、降参だ。これは何の肉だ?」
この答えを聞いたら、東王国へ帰ろう。
そして、帝国の担当を外してもらうように頼むのだ。こんな訳の分からない国は、もう沢山だ。
「この肉は……鯨の尾の身です!」
鯨、と聞いてジャンはすぐには何のことだか理解できなかった。
特別な育て方をした牛、とかそういう答えを無意識に期待していたのだろう。頭が給仕の女の答えを受け付けるのを拒んでいるかのようだった。
「鯨?」
「はい。あの、海にいるでっかい奴です」
ジャンも奇譚拾遺使の端くれだ。そんなことは知っている。
鯨を獲る漁法が存在することもだ。
だが、それは遥か遥か異国の地での話に過ぎない。東王国から足を延ばせる範囲で鯨を食べたなどという話は、御伽衆の記録にも残っていないのだ。
東王国の人間としては、ジャンが鯨を食べた歴史上はじめての人間になったということでもある。
背筋に冷たいものが走るのをジャンは感じた。
古都に関わるべきではない。こんな場末の居酒屋でこれなのだ。
好奇心は猫をも殺す。奇譚拾遺使としての職務より、ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーは自分の聖明を優先した。
「大変結構な食事でした。とても満足しています」
「そうですか! そう言って頂けると嬉しいです!」
腰の合財袋から馬蹄の形をした銀貨を取りだし、微笑む給仕に押し付けるようにして手渡す。
「私は急用を思い出したので、これで返らねばなりません。本当に美味しかった。ありがとうございます」
転がるようにカウンターの椅子から立ち上がったジャンに、カウンターの隅から老僧がにこりともせずに会釈を送って来た。
「帰り道には気を付けて、な」
注意とも警告とも聞こえるその言葉に、ジャンは振り返りもせず店を飛び出した。あの老僧は、実は帝国の密偵だったのではないか。
慎重を期して連合王国担当のジャンを潜入させたが、綺譚拾遺使の諜報活動は全て敵に筒抜けだったのかもしれない。
いつの間にかとっぷりと陽が暮れている。
一刻も早くことを抜けよう。
今のジャンを支配しているのは、今すぐこの場から逃げ出したいという強い気持ちだけだ。
ただ、あのシーザーサラダはもう一度食べてみたいな、とも考えていた。




