徴税請負人と笑わない少女(後篇)
くつくつとお湯の煮える音が、居酒屋ノブの店内を暖かくする。
すっかり帰りそびれたシノブが、パスタを茹でてくれることになったのだ。
先ほど自分から名乗ったヘンリエッタだが、またもだんまりに戻ってしまった。
しかしその目は鍋から片時も離れず、表情には期待の色が隠し切れていない。
「ヘンリエッタちゃん、もうちょっとだけ待ってねー」
狼歯に偏見のないらしいシノブは、すっかりヘンリエッタのことが気に入ったようだ。
茹で上がったパスタを手早くザルに上げて湯切りし、フライパンへ。
タイショー不在の時に何度も何度もゲーアノートが頼み込んで作ってもらったからか、すっかり手が覚えているかのような挙措だ。
あらかじめ炒めていた厚切りのベーコンにピーマンとタマネギ。
そこへパスタを投入すると、たっぷりの真っ赤な調味料で味付けをする。
シノブによれば、ほんの少しウスターソースという調味料を加えるのが隠し味だというのだが、ゲーアノートが調べてもそういう名前のソースは、帝国ではおろか東王国、聖王国にもない。
麺に具材を絡める小気味のいい音が、店内を満たす。
「お待たせしました! しのぶの特製まかないナポリタンです!」
綺麗に盛り付けられたナポリタンは正に、赤い至宝。
今日はヘンリエッタのために一日中駆け回ったので、ゲーアノートも空腹に堪えかねた。
考えてみれば、一人でぽつんと古都の道を歩くヘンリエッタに声を掛けたのがゲーアノートで、本当によかったと思う。古都は都市としては比較的治安のいい部類に入るが、然りとて邪な人間が全くいない理想の都というわけではないのだ。
もしも心清からざる者がはじめに声を掛けていたら、ヘンリエッタの運命は今とはまるで異なるものとなってしまっていたかもしれない。
「さ、冷めないうちに食べなさい。美味しいから」
今すぐに食べたいと逸る気持ちを抑え、ゲーアノートはまず少女に食べるよう促す。
しかし目の前でナポリタンの皿が湯気を立てているにも拘わらず、少女の食指は動かない。
ゲーアノートは、じっと少女の目を見つめる。
食べない。
そうか。危険はないと、身を以て示さねばならないのだ。
フォークを手に取り、素早く粉チーズとタバスコを掛ける。
そして、ヘンリエッタによく見えるようにして、一口。
口の中に、宇宙が開闢された。
甘みと酸味と辛味の三味が渾然一体となり、ゲーアノートに神の慈愛を伝える。
そう、愛だ。
多幸感に浸りながらヘンリエッタの方を見遣ると、まだ手を付けていない。
小さな両の拳をぎゅっと握りしめて膝の上に置き、ナポリタンの皿をじっと凝視している。
「ああ、もう、じれったいな!」
他の人間の食べる皿には何があっても決して手を加えないという普段の自分の流儀に反するが、ゲーアノートはヘンリエッタの更に粉チーズとタバスコを掛けてやった。
もちろん、タバスコはほんのちょっぴりだ。
それでもヘンリエッタは動かない。
ゲーアノートはヘンリエッタの手を取り、フォークを持たせてやる。
更にナポリタンの皿をヘンリエッタの目の前にずいと動かしてやりさえした。
「さぁ、食べていいんだ」
それまで躊躇っていたヘンリエッタだったが、何かを決意したようにゲーアノートの方へ頷き、フォークを動かす。
意外なことに、カトラリーの扱いは優美だ。
いや、整った容貌のことを考えれば、むしろその方が相応しいようにも思える。
いったいどういう親からこの子が生まれ、どのように育てられたのか、ゲーアノートには想像もつかない。
くるりとフォークにパスタを巻き付け、意を決したように口へ運ぶ。
そして。
「・・・・・・美味しい」
うっとりと、目を潤ませながら、ヘンリエッタが呟いた。
続けて更にもう一口、更にもう一口。
「美味しい、美味しい、美味しい!」
こうなってしまえば、もう止まらない。
ピーマンも厚切りのベーコンもタマネギも、好き嫌いなく、全て口へ運んでいく。
その表情は幸福そのものだ。
子供らしい笑顔を浮かべて、狼歯も気にせずにナポリタンを頬張る姿に、ゲーアノートの口元も思わず緩む。
子供にしては結構な量を盛り付けていたと思ったが、ヘンリエッタは気にせずにぺろりと平らげてしまった。
考えてみれば、今日は何も口にしていないはずなのだ。
「・・・・・・しかし、この子をどうしたものかな」
独り言ちたつもりだったが、シノブが笑顔でゲーアノートに答える。
「大丈夫、私に考えがあります」
「そりゃまぁ、私としてはカミラの友達ができるなら願ったり叶ったりだけどね」
満更でもない表情で苦情らしきことを申し立てるイングリドの横で、カミラとエーファ、そしてヘンリエッタが仲良くカウンターに腰掛けて、プリンに舌鼓を打っている。
シノブの言う考えとは、イングリドのところへ預けることだった。
「一時的にせよ、長期的にせよ、イングリドさんのところなら安心ですし」
言外にシノブは、ヘンリエッタに行く当てが見つからなければ薬師としての技能を身につければいいと言っている。
「ゲーアノートさん」とヘンリエッタがゲーアノートに声をかけた。
「どうした?」
ぺこり、と頭を下げ、ヘンリエッタは笑う。
「どうもありがとうございます」
思わぬ一言に、ゲーアノートはコホンと空咳を一つ。
感謝されるのも、それほど悪い気はしないものだ。




