幸せの先の贅沢(前編)
「しかし、腹が減ったなぁ」
すっかり空っぽになった腹を擦りながら、ホルストは氷雨に煙る街の灯に目を凝らした。
〈馬丁宿〉通りというだけあり、馬丁や遍歴商人が立ち寄るような酒場や宿屋が立ち並んでいる。
行き交う酔客の談笑が耳に心地よい。
雰囲気のいい通りだ。
こういう通りには美味い店がある。旅慣れたホルストの経験が、そう告げていた。
古都。
少し前までは“ちょっと大きな街”としか認識されていなかった街だ。
歴史はあるが、名物はない。
そんな街が今では、ホルストのような若くて力だけ有り余った食い詰め者にとっての目指すべき街になっている。
運河の浚渫。
沼地を掘り返して河を一本拵えようという壮大な計画は、帝国北部では噂の的だ。
とんでもない量の土を運び出すにはとんでもない数の人間が必要で、そのためにはとんでもない金額の金貨銀貨が動くはず。
その希望を胸に、帝国北部の津々浦々から、若者たちが集まってきている。
元々、若者が余っているのだ。
農村の田畑は長男夫婦が受け継ぐものだから、次男三男は村を出るしかない。
街の職人でも境遇は似たようなものだ。少々腕に覚えのある連中は衛兵や傭兵の口があったが、それもこのところ景気が冷え込んでいる。
北方三領邦の始末を、先帝陛下が見事に収めてしまったからだ。
ホルストが槍と靴を餞別代りに故郷のヴァイスシュタットを飛び出したのが数年前。
少年に毛の生えた程度の若さだった見習い傭兵のホルストも、酒の味を覚える歳になった。
身長だけはにょきにょき伸び、街を出るときにはチビだったのが今では立派なノッポだ。
とはいえその体格を活かせる仕事にはなかなかありつけず、古都に到着してからは運河の浚渫で溜まった土砂を運ぶ仕事をしている。
言ってしまえば単なる日雇い労働者なのだが、食うには困っていない。
体格と目端の利くのを買われて、ホルストは労働者たちのまとめ役に就いていた。
工事を差配している市参事会も商会も侯爵家も水運ギルドまでもが金払いはきちんとしている。
こういう工事をしている場所では出稼ぎ相手の法外に値段の高い飲食店が蔓延るものだが、古都では徴税請負人がきっちり搾り上げているらしかった。
ありがたい話だと思いながら、ホルストは両の掌に息を吐きかける。
とにかく、寒い。
冬の間、運河の浚渫工事は中止されている。
帝国でも北部に位置するこの辺りでは、沼地にも霜が降り、薄氷の張る日が多い。
さすがにこの時期の沼に入って泥を掻い出すのは不可能だ。
だからホルストのような出稼ぎは既に掻い出された泥をもっこで運ぶ作業をすることになる。
この泥が、難物だ。
沼底にあって水をたっぷり含んだ泥は、この寒さで岩のように固くなっている。
まとめ役といっても、率先垂範。
まず自分が先頭に立って鍬を握らねば、一癖も二癖もある出稼ぎ労働者たちは指図を受け入れてくれるはずがない。
木鍬で崩して適当な大きさにしてから運ばねばならいが、寒風の吹き荒ぶ最中での作業は身体の芯まで冷えてしまった。
そういう次第で、今のホルストはとにかく温まるものを腹に詰めたい。
できれば温かい酒もあればいうことなしだが、そこまでの贅沢は言うつもりはなかった。
「スープか、煮込みか……」
店の方でも客の考えることは分かっているようで、そこかしこから呼び込みの声が掛かる。
あっちへふらふら、こっちへふらふら。
この店にしようかと思って寄ってみるとそのまた隣が目に付くし、あの店からいい匂いがすると近付けばじうじうと美味そうな音が別の店から聞こえてくる。
悩む時間も贅沢なのかもしれないとにんまりしながらホルストは歩いた。
そうこういていると、目の前に一軒の店が現れる。
居酒屋ノブ。
異国風のたたずまいに、ホルストは妙に惹き付けられた。
今日はここにするか、と硝子戸を引き開ける。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
ふわり、と温かい風が凍えたホルストを包み込んだ。
奥で暖炉でも焚いているのだろうか。氷雨の中を歩いてきた身には、この温かさだけでも十分な値打ちがある。
「こちらをどうぞ」と赤毛の少女に渡されたふかふかした布で頭を拭うと、ホルストはそれだけで人心地ついた気分になった。
至れり尽くせりだな、と思いながら、カウンター席に腰を下ろす。
隣の席には銀髪の女性と、少女の二人組。
銀髪の方からは微かに薬の香りがするから、薬師かなにかだろうか。
「ご註文はお決まりですか?」
シノブ、という名前の女給仕に尋ねられ、ホルストは大きく頷いた。
「とにかく温かいものを。それと、お酒も」
はい、かしこまりました、とシノブが微笑む。
その笑顔が、温かい。
荒くれ男たちの顔を見て作業しているだけに、ささやかな笑顔にも心が癒やされる。
応対の端々に優しさが滲むのが、何とも嬉しいのだ。
不意にホルストは、ここが高給な店ではないか、と少し不安になった。
暖炉に行き届いた客の扱い、思い返してみれば引き戸も硝子ではなかったか。
普通の出稼ぎ労働者の入るような格の店で、このような応対をしてもらった記憶がない。
まぁ、なんとかなる。
古都の運河浚渫に支払われる賃金は同じような内容の肉体労働としては破格のものだったから、ホルストの懐はそれなりに温かい。
「オシボリです」
エーファという名前の先ほどの少女が小さな布を差し出してくる。
「ありがとう、っと」
その温かさに、ホルストは思わずオシボリを取り落としそうになった。
温かい、というよりも、少し熱い。
だが、悴んだ掌にこれほどのもてなしがあるだろうか。
思わずオシボリに頬ずりしたくなるのを、何とか堪える。
もうこのオシボリだけでこの店に入った甲斐があった。
指先からじんわりと温かくなっていく感覚を楽しんでいると、早速料理が運ばれてくる。
「これは?」
「お通しの風呂吹き大根です。お料理が出るまで、こちらを召しあがってお待ちくださいね」
オトーシのフロフキダイコン。
ふんわりとおいしそうな香りの湯気が立ち上った。
聞いたことのない料理だな、と思いながら、透き通るほどに煮込まれた根菜を木匙で口に運ぶ。
「あふっ」
口に含んだ瞬間、熱々の汁が口の中へと溢れ出た。
熱い。しかし、美味い。
舌、喉、胃の腑と熱さがゆっくり下っていくのが分かる。
さきほどまでの寒さはどこへやら。ホルストの身体の奥底から温かさが広がっていった。
器の底へ溜まった汁も、一口。
これもまた、いい味をしている。
甘くもなく、辛くもなく、しょっぱくもなく、ただただ旨い。
じんわりと美味いというのは、はじめての経験だ。
「お待たせいたしました。肉豆腐と、熱燗です」




