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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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旅人の帰還(後篇)

「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」


 暖かい。

 外を歩いていたときにはそれほど気にならなかったが、やはり身体が冷え切っていたらしい。

 店の中の不思議なほどの暖かさに、何となく微笑んでしまう。

 人間、何かに安心すると自然に笑みこぼれるものなのかも知れない。

 店はほどよく混み合っているが、ちょうどいい具合に空いたカウンター席に座を占める。


「おしぼりです」


 黒髪の女給仕の差し出す手拭いを受け取った。

 温かい。

 少し熱いと感じるほどの温かさが、悴んだ手指にありがたい。

 細かな所にも配慮の行き届いた店だという話は聞いていたが、なるほどこれはいいものだ。


 ご注文は、と尋ねられたので、何か温かいものをと頼む。

 マグヌスはぐるりと店内を見回した。異国情緒あふれる店だという触れ込みに嘘はない。

 何もかもが目新しく、面白く見える。


 カウンターの上に並ぶ、見たこともない酒の瓶。壁にかかる様々な調度。そして、厨房。

 仕事柄、何にでも興味が湧いてしまう。


 まず、明るい。

 これは十中八九、錬金術師の発明品だろう。

 獣脂でも蜜蝋でもない灯りは錬金術師たちの中でも金儲けに関心のある連中が開発に血道を上げているという報告は受けていたから、これもその一つに違いない。


 煙も出ず、冬でもこの光量というのは大したものだ。

 貴重な硝子を引き戸に使うところやこれだけ室内を温められるところからしても、この店は結構儲けているのだろうとマグヌスは見た。


 例えばカウンターに飾ってある帆船の模型など、どうやって壜に詰めたのかも分からない。

 まさか目の前で調理をしている店主がちまちまと壜の中に帆船を組み立てた訳でもなかろうし、何か硝子職人が新しい技術を見つけたのだろうと当たりを付ける。


「お通しのたたききゅうりです」


 タタキキュウリ、とははじめて聞く料理だが、要するにキュウリ(グルケ)のことだ。

 冬に青い野菜は実に嬉しい。特に、旅の後には格別である。

 シノブという名前の女給仕によれば、油と塩味の海藻で味付けをしてあるらしい。


 ポリ。

 ポリポリポリ。

 なるほど、摘まんでみると、実にいい。

 身体が青野菜を欲しているから、味付けなどなしでもいいと思っていたが、これは。


「済まない、料理の前にエールを頂けるかな」

「はい、生おひとつですね」


 注文すると、すぐにエールが運ばれてくる。

 聞けばエールではなくラガーのようなものだというが、今のマグヌスにはどうでもいい。


 ポリリ。

 グビリ。

 ポリ。

 グビグビリ。


 やはり、合う。

 タタキキュウリの塩気が、冷えたラガーに実によく合うのだ。

 微かな苦みのあるキレのあるラガーが、喉を下っていく。


 ああ、これだ。

 旅の疲れが胃の腑へと押し流されていくかのようだ。

 常連だろうか。他の客たちも皆楽しそうに酒を酌み交わしている。


 こういう店はいい店だ。

 気取らずに酒を飲み、時間を溶かすことができる。

 騒がしいのに、自分と、酒と、肴だけがそこにある気分にさせてくれる店だ。


 不思議なもので、いい店というのは初回に訪れた時にも、帰ってきたという感じがする。

 居酒屋ノブは、そういう店の一つだ。

 旅をしながら星空の下、独りで飲む酒もいい。


 だが、マグヌスにとってはこういう店で飲む酒はやはり格別だった。

 店という空間で、飲む。

 友人がそこにいるというわけではない。

 酒場の雑然とした雰囲気が、織りなす人間関係が、そこで生じるちょっとした葛藤とその解決がマグヌスの心を酔わせ、慰めるのだ。

 兄がこの店に入れ込むのも、よく分かる。


「お待たせしました! スキヤキ風の煮物です!」


 料理を運んできたのはエーファという赤毛の少女だ。

 なかなか気の利く少女で、混み合う客席の合間を縫うようにしてくるくると毛玉鼠のように走り回っている。


 ゴトリ、と厚手のスープ(ズッペ)皿が目の前に置かれた。

 立ち上る甘い香りが食慾をそそる。

 肉を甘く煮るというのはあまり聞かないが、スキヤキ風ということは異国の料理に違いない。

 スキヤキというのがどの辺りの地名なのかマグヌスは知らなかったが、何とも美味そうだ。


 目を閉じ、鼻から胸いっぱいに香りを楽しむ。

 旅の間に旅籠や船宿で出てくるのは脂身と屑野菜を煮込んだスープ(ズッペ)シチュー(アイントフプ)ばかりだったから、肉が入っているというだけで贅沢な気分になった。

 白い塊もどうやら脂身ではないらしい。


「さて、と……」


 眼鏡が湯気で曇るので外すと、シノブが妙な顔をする。

 マグヌス自身は兄とそれほど似ているつもりはないのだが、見間違えたのかもしれない。

 煮物を、一口頬張る。


「あ」


 美味い。

 柔らかく、甘く煮込まれた牛肉に、ごくごく自然に笑みが零れる。

 肉を噛むのが、嬉しい。


 ネギやその他の具材も、実によく煮えている。

 単に脇役としてではなく、煮汁の味をしっかりとまとっているから、存在感があるのだ。


 ああ、美味い。

 肉を甘く煮るというのに不思議なものを感じたが、疲れた身体にはこの甘さが、効く。


 あふあふ。

 まだ熱さの残る肉を頬張ると、身体に熱が、力が漲ってくるのを感じる。

 美味いのと幸せとの合わさった感情が、肚から全身に広がっていくのをマグヌスは感じた。


 そしてここに、ラガー。

 グビリ。

 これもまた、合う。


 肉の力強さが、ラガーとしっかりと噛み合うのだ。

 口の中の甘さが苦みによって洗い流され、また新鮮な気持ちで煮物と向き合うこともできる。


 そこからは、夢中だった。

 食べる、飲む。

 飲む、食べる、飲む。

 食べる、食べる、飲む。


 気付けば、皿が空になっていた。

 もう一杯頼むか。

 いやいや〈溢れるは足りぬが如し〉ともいうではないか。

 心地よい満腹感に、マグヌスはここ数年感じたことのない満足感を堪能していた。


「お勘定をお願いします」

「はい!」


 泪滴銀貨でよいというのを、無理矢理に大銀貨を押し付ける。

 よい商いには正しい報酬で報いなければならない。

 それが経世済民というものだ。


「ありがとうございました!」


 給仕たちの声に見送られ、店を後にする。

 いつの間にか空を覆っていた雪雲は薄くなり、合間から双月が顔を覗かせていた。

 雄月と雌月は、まるで兄弟のように古都の空を照らしている。


「さて、兄上との面会前にもう少し仕事をしないとな」


 マグヌス・スネッフェルスは寒空に大きく伸びをした。

 美味い物を食べて、旅の疲れは吹き飛んだ。

 その横顔は、本人が思っているよりも、兄のアルヌによく似ていた。


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― 新着の感想 ―
この人アルヌ似なんですよね? タイショーたち何も感じなかったのかな?
>これだけ室内を温められるところからしても →これだけ室内を【暖】められるところからしても
[一言] >この連載小説は未完結のまま約半年以上の間、更新されていません。 途中から更新すると、この表示が消えてくれないんですね。
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