〆のとうめし(終)
このところ、信之は考え込むことが多くなった。
料理の作業と作業の合間。
客を見送った後の、一瞬。
下拵えをするハンスに指示を出す前の、一呼吸。
一拍一拍は小さな思考だが、これまでは流れるようにこなしていた仕事の隙間、隙間に、僅かな時間が挟まっている。
しのぶが気付くくらいなので、見えないところではもっと考えているのだろう。
切っ掛けは多分、〈四翼の獅子〉亭での一件だ。
あの日、信之は何かを失って、それ以上の何かを得たように見えた。
考え込むのは、得たものを飲み下すために必要な時間なのだろうと、しのぶは思う。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
今日の居酒屋のぶも、満員御礼。
カウンター席もテーブル席も、常連客と新規のお客で一杯だ。
ここまで来られたのは、信之としのぶの力だけではない。
エーファがいて、ハンスがいて、リオンティーヌがいて、常連のお客さんたちがいる。
皆の力で、ここまで来ることができた。
だからこそ。
信之はやっと、〈ゆきつな〉時代の自分と向き合うことができるようになったのだと思う。
〈四翼の獅子〉亭で、信之は人を使った。
ハンスという愛弟子には毎日指示を出しているが、はじめての厨房で、はじめての部下に作業を頼むのは、本当に久しぶりだったはずだ。
〈ゆきつな〉を辞めて独り立ちすると決めた時、信之はどんな気持ちだったのだろう。
決して、厨房で孤立していたわけではない。
むしろ優し過ぎたのだ、としのぶは信之のことを見ていた。
あの頃、経営の傾いた〈ゆきつな〉がリストラを計画していたのは、周知の事実だ。
誰かがここを去らねばならないのなら。
そう考えて信之は、自分が辞める決断をしたのではないか。
大勢の部下のいる厨房で、師匠である塔原板長の後任として指示を出す。
〈ゆきつな〉の板場を信之が守るという未来もあり得たはずだ。
ひょっとして、信之は〈ゆきつな〉に戻りたいのではないか。
雰囲気は大きく違うといえど、〈四翼の獅子〉亭の厨房で部下を差配したことで、里心がついたのかもしれない。
もしそうだとしても、信之は決して自分からは口にしないだろう。
天ぷらを揚げる信之の背中は、何も語らない。
「タイショー、オデンのダイコンのテンプラ、二人前追加!」
「シノブさん、エトヴィン助祭にアツカンのお代わりを!」
温かな喧騒に包まれる店内で、しのぶは信之の横顔をじっと見つめた。
十八歳で〈ゆきつな〉に弟子入りして来た頃から見慣れた顔。
自分のことよりも、他人のことを先に考える、優しい顔だ。
「……しのぶちゃん」
視線に気付いたのか、信之が声を掛けてくる。
「大将……」
しのぶに、信之が小さく頷きを返した。
全て分かっている。そんな力強さを感じさせる頷きだ。
「しのぶちゃん、分かっているよ。まかないだよね」
今日のまかないは、とうめし。
白飯の上に、おでんの豆腐をのせ、おでん出汁をかける汁飯だ。
ほろほろに煮崩れた豆腐を箸で崩しながら食べる、行儀悪く美味しいまかない飯だ。
おでんに使っている豆腐は、ハンスのお手製。
量を作るのはまだ難しいので、少しずつだが、のぶの料理に取り入れている。
豆と水の相性がよいのか、しのぶも大満足の豆腐に仕上がっていた。
ちょうど空いた、カウンターの一番奥の席に腰を落ち着け、大きめの茶碗を両手で持つ。
ふんわりと鼻先をくすぐる出汁の香りが、とても優しい。
「ねぇ信之さん、最近、何を考えているの?」
「ん? そうだなぁ」
喧騒の中、不思議と二人だけの声が聞こえる。
「……ハンスは豆腐を自力で作った。リオンティーヌは、どんどんお酒を憶えている。エーファは頑張り屋さんだ。自分はこれからどんな新しいことに挑戦できるのかなって」
ああ。
しのぶを通して遥か遠くを見つめる信之の瞳には、一点の曇りもない。
〈四翼の獅子〉亭で大きな厨房に入って部下を使ったことは、信之の心を料亭〈ゆきつな〉に連れ戻したのではなかった。
むしろ、やっと〈ゆきつな〉から解き放ったのだ。
「しのぶちゃん?」
急に微笑んだしのぶを訝しんで、信之が声を掛けてきた。
「何でもない。心配して損しちゃった」
さらさらと、とうめしを流し込むように食べる。
優しい香り、優しい食感、そして優しい味。
日々はこれからも続いていく。
少しずつ変わりながら、それでも、ずっと。
とうめしを食べ終えたタイミングで、引き戸が開かれる。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
新しい酒、新しい肴、そして新しいお客。
明日はどんな日になるのだろうか。
そんなことを考えながら、しのぶは今夜もお客を迎えるのだった。




