〈銀の虹の姫君〉(参)
これはまた、とんでもないことになった。
厨房の入り口でリュービクは小さく肩を竦める。
市参事会からやって来た使い走りの報告では、古都の周囲をぐるりとサクヌッセンブルク侯爵の大軍が囲んでいるそうだ。
今すぐに攻城戦をはじめる様子はないということだが、異常事態であることに違いはない。
アイテーリアは帝国直轄自由都市だ。
通常の都市とは異なり、領主として伯爵などの貴族を戴かず、市参事会が皇帝陛下の名代として統治をする。特別の勅許を得た都市にのみ与えられる特権だ。
当然、この都市は皇帝の領土として扱われる。
アイテーリアを攻撃することが即座に帝室への宣戦布告になるわけではないが、そう取られても仕方のない行動だ。
サクヌッセンブルク侯爵が何故そんなことをしでかしたのか、リュービクには想像もつかない。
まだ年若いが、聡明な方だという評判だ。
それが、何故。
ただでさえ気が気でない状況だというのに、侯爵軍の攻略目標が〈四翼の獅子〉亭らしいと聞いてしまっては、もうこれが夢であることを祈る他ない。
「敵は〈四翼の獅子〉亭にあり」
英雄物語の一節になりそうな、名文句である。
それでも件の〈河賊男爵〉に退店願わないのは、宿の矜持だ。
ここで宴をやるという客を追い出すことは、リュービクの名が許さない。〈四翼の獅子〉亭は、長い会談で戦争を終わらせた店なのだから。
「何名かは、残るそうです」
他の宿泊客への説明を終えたパトリツィアが、厨房に駆け込んできてリュービクに耳打ちする。
まったく、誰も彼も。
騎士と河賊の乱戦を、危険覚悟で見物したいとでもいうのだろうか。
莫迦ばかりというと失礼に当たるが、気持ちは分からなくない。
リュービクは目の前で一心不乱に宴の支度をする料理人たちの姿を見た。
危険を伝え、逃げても咎め立てはしないと伝えたにも拘わらず、この場を後にしたのは最近雇った二人だけだった。
そして。
「ハンス、次の魚を」
「はい!」
鮮やかな包丁捌きで魚を卸していくタイショーと、その手伝いをするハンス、食器の支度を手伝うシノブの姿にリュービクは目を細めた。
柔らかなダシの香りが、鼻腔を通じて胃袋を刺激する。
危険を説明し、今は逃げるべきだと説得し、逃げてくれと懇願までしたというのに、この三人は、厨房を離れなかった。
戦場になるかもしれない場所で、料理をする。
異郷から訪れたタイショーという男は、思っていたより自分に似ているのかもしれない。
そんなことを考えながら、リュービクも調理に戻る。
サクヌッセンブルクの殿様と河賊の軍勢がぶつからなくても、ここは既に戦場だ。
焼く。
煮る。
蒸す。
揚げる。
炒める。
人智の及ぶ限りのありとあらゆる調理法が、食材が、剣戟の代わりとなる戦場。
材料も次々と運ばれてくる。
〈四翼の獅子〉亭が特別に押さえている近隣の農村や市場で買い占めた肉や野菜、肉に卵が山盛りになって厨房へと雪崩れ込むのは、物の洪水のようだ。
裏口にはまだまだ馬車が何輌も連なって、食材が運び出されるのを待ち侘びている。
まったく、ここは戦場だ。
流れるような所作で魚を捌きながら、タイショーが周りの料理人たちに指示を飛ばす。
冷めやすいもの、手早く作れるものはなるべく後回しに、時間のかかるものと下拵えを優先するタイショーの指示は理に適っていた。
出来上がった料理が次々と大皿に盛りつけられ、宴会場へ運ばれていく。
調理も一流なら、盛り付けもまた一流。
単なる居酒屋の主とは思っていなかったが、部下を上手く扱う修練も積んでいるということだ。
「負けてはおれんな」
リュービクも矢継ぎ早に部下の料理人たちへと指示を出す。
作り慣れた〈獅子の四十八皿〉の料理でも、今日は作らねばならない量が違った。
小鍋のものは大鍋で。
大鍋のものは大釜で。
材料を少なくするよりも、多くする方が調整はしやすいとは言うものの、これだけの量を作るのはリュービクにとってもはじめての経験だ。
自分でも要所要所で味見はしているが。
「パトリツィア!」
「しのぶちゃん!」
リュービクとタイショーの声が同時に響き渡る。
最も信頼できる舌の持ち主。
宴席の料理を一手に仕切る疲労で鈍っているかもしれない自分の舌よりも、確実に味を見ることのできる〈神の舌〉。
二人の料理人の差し出した手塩皿を、二人の〈神の舌〉が味見する。
「美味しいです」
「美味しい。でも、煮詰め過ぎには注意してね」
それぞれがそれぞれに頷きを返した。〈神の舌〉が美味しいというのなら、間違いはない。
背中合わせに厨房を差配する、タイショーとリュービク。
その動きには一切の無駄がない。
生まれてはじめて、リュービクは、料理が楽しいと思った。
これまでは、自分のためではなく、父のため、店のため、誰かのために腕を振るっていたのだ。
だが、今この瞬間、逃げ出してもいいはずの場で腕を振るっているのは、紛れもなく自分のためだろう。
一心不乱に調理を続けるタイショーも、きっと同じ思いなのではないか。
円舞の如き時間はしかし、厨房の外からの喧騒によって中断された。
「サクヌッセンブルク侯爵だ! 供を一人連れているだけだぞ!」
〈四翼の獅子〉亭は、ちょっとした砦のような威容を誇る。
伝統と格式が具象化したような堅牢な石壁の周りには、既に河賊たちが待ち構えていた。
相手にとって、不足はない。
アルヌは鞘から両刃の剣を抜き放った。
しかし、妙だ。
日に焼けた肌の男たちの眼には、戦意と緊張だけでなく、戸惑いの色が浮かんでいる。
こちらが二人だけしかいないことを警戒しているのだろうか。
その中央を掻き分けるようにして、長身の老貴族が進み出てきた。
豊かな白髪に痩身、そして顔に隠そうともしない大きな傷。
〈河賊男爵〉ことグロッフェン男爵だ。
アルヌは胸に大きく息を吸う。
身体の隅々まで、血流が行きわたるのを感じながら、若き侯爵は、吼えた。
「遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそはサクヌッセンブルク侯爵アルヌ・スネッフェルス。この旅館にて掠奪婚の前祝いが行われていると耳にし、義によって馳せ参じた。首謀者は、正々堂々と一騎討ちに応じられよ」
老練の戦士であるグロッフェン男爵はしかし、アルヌの言葉を受けても剣さえ構えない。
それどころか、何がおかしいのかクツクツと笑いはじめた。
「何がおかしい」
侮辱されたと感じたのか、イーサクが激昂する。
それを指の長い掌で制しながら、男爵は笑みを無理やり噛み殺した。
「侯爵閣下、誤解です。それも酷い誤解だ」
誤解、とはどういうことだ。
「誤解と言うなら、今すぐ乙女を解放せよ」
イーサクが苛立ちを隠さずに問い質すと同時に、ゆっくりと〈四翼の獅子〉亭の大扉が開く。
「それには応じ兼ねるな」
答えたのは、男爵ではない。
凛とした声は、アルヌの耳朶にはっきりと残っている、あの声だ。
白馬の馬上には、〈銀の虹〉の姫君の姿がある。
「掠奪婚の首謀者、オーサ・スネッフェルス。一騎討ちの呼びかけに応じて、参上した」
首謀者とは、どういうことだ?
混乱するアルヌに、オーサ姫は長柄の戦斧を突き付けた。
「侯爵殿、いや、婿殿。大人しくこのオーサに掠奪されませい」




