老婦人の来店(前篇)
身体が、自然と動いた。
頭、胸の中心、臍の線を守るために半身に構え、腰を落とす。
誰にも気取られないように、後ろ手で箒を掴んだ。
些か頼りない得物だが、それでもないよりはいい。リオンティーヌは、そう判断した。
女給仕の動きでは、ない。
幾度となく戦野で繰り返した動きだ。
何百何千の昼と夜、研鑽の中で身に付けた動きだ。
そして、リオンティーヌ・デュ・ルーヴの命を守ってきた動きでもあった。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
いつも通り、夜営業の居酒屋ノブ。
ほどほどに客の入った店内には穏やかな空気が流れていた。
気付いているのは、リオンティーヌだけだ。
誰かが、いや、何かが、来る。
硝子戸がゆっくりと引き開けられる間に、元女傭兵は自問した。
何故、自分はこんなに脅えているのか。
身体の震えが、止まらない。噛み合わない歯の根が音を鳴らさないように、必死に噛み締める。
あの日、〈鬼〉のベルトホルトと対峙した時でさえ、ここまでではなかった。
背中をぐっしょりと嫌な汗が濡らす。
カラリ。
「……すみませんが」
顔を覗かせたお客を見て、リオンティーヌは意表を突かれた。
お淑やかな、とでも評するべき老婦人が、そこには佇んでいる。
しかし。
しかし、この気魄は何だというのだろう。
杖を突いて歩くこの小柄なご婦人の、どこに。
そこまで考えた時、リオンティーヌは無意識に半歩、飛び退っていた。
目が、あったのだ。
晩餐のために居酒屋を訪ね歩いている老婦人の眼では、決してない。
強いて言うならば、“戦士の眼”だ。
それも、上等の。
「こちらでは、宿泊はやっておられますか」
リオンティーヌの様子など気にも留めず、老婦人がシノブに尋ねる。
立ち居振る舞いは、一見すると貴族の老婦人のそれだ。
だが、リオンティーヌには分かる。
あの歩法。
そして、呼吸。
穏やかな午後を詩歌など詠んで暮らす老婦人のものであるはずがなかった。
リオンティーヌと同じ、血と泥に塗れた、戦場の住人の所作振舞いだ。
その時、リオンティーヌは唐突に気が付いた。
少し前から店の客たちが噂をしていた不思議な事件の話だ。
「破落戸を叩きのめしている老婆がいる」
何を莫迦な、と頭から信じていなかった。
古都の衛兵隊はハンスやニコラウスが抜けた後も精強だ。
その衛兵たちと渡り合い、古都の裏道に巣食う破落戸も曲者が多い。
老婦人が叩きのめし、あまつさえ自首させるだなんて。
作り話にしても出来が悪い。
人の言葉を信じなかった自分を、リオンティーヌは愧じる。
「申し訳ございません。当店はこの通り、食事とお酒だけの営業をさせて頂いております」
心の底から申し訳なさそうに頭を下げるシノブを、リオンティーヌは横抱きに抱いて飛退きたいという衝動に駆られた。
老婦人から発せられる、隠し切れない気魄は、最早リオンティーヌをして、撤退を選択せざるを得ないほどにありありと感じられる。
せめてこの場に、衛兵の一人、いや、〈鬼〉のベルトホルトでもいれば。
二対一。
それで漸く、互角に至るかどうか。
リオンティーヌの額から頬を伝い、汗が一筋、顎を伝う。
「……そうですか。それは残念です」
落胆した様子の老婦人に、リオンティーヌはほんの少しだけほっとする自分に気付いた。
傭兵としての本能は、一瞬たりともこの危地に身を置くべきではないと告げているからだ。
老婦人が何も食べずに帰ってくれるなら、重畳。
それほど喜ばしいこともない。
「では、またの機会に……」
踵を返す、老婦人。
ただ身を翻すだけだというのに、美しさは達人の域に達していた。
これで、この老婦人から離れられる。
リオンティーヌは自分の身体の奥底で、何かが弛緩するのを感じた。
それだというのに。
去り行こうとする老婦人の小さな背中を見て、リオンティーヌは自分の口が勝手に動くのを止められなかった。
「ちょいと待ちな」
驚いたように老婦人が振り返った。
杖を握る手に、微かに力が入っているのがリオンティーヌには分かる。
「まぁそうお言いでないよ、お客さん。ここは酒も肴も、結構いける。食事がまだなら、ちょっと舌を愉しませていくのも悪かないと思うよ」
元傭兵ではなく、居酒屋ノブの女給仕として。
せっかく足を運んでくださったお客に、何も出さずに帰すというのは、リオンティーヌの矜持が許さなかったのだ。
「あら、そう」
右手はしっかりと杖から放さず、老婦人は左手を上品に口元へ添えた。
「そうねぇ。ちょうどいい時分ですし、こちらで頂いていこうかしら」




