ラインホルトと鰻と栗(後篇)
コトリ。
二人の目の前に、小皿が置かれたのはその時だった。
皿の上には、何かの実のシロップ漬けと、二種類の菓子が二人分、乗せられている。
「あちらのお客様からです」
シノブの言う方に視線をやると、品のよい貴族の若夫婦がにこやかに談笑していた。
どこかで会ったことがあっただろうか。
貴族の知り合いは少なくないラインホルトだが、記憶がぼんやりとして、思い出せない。
聞けば、美味しいお菓子なので是非、他の皆さんにも味わって欲しいとのことだった。
「ふむ、これは何の実かな」
ゴドハルトが顎に手を当て、考え込む。
水運ギルドのマスターは一般的に、各地の産品に博識だ。そうでなければ、務まらない。
荷物の取り違えやちょっとした諍いがあった時、裁定に入らねばならないからだ。
押しも押されもせぬ〈水龍の鱗〉のギルドマスターであるゴドハルトが知らないということは、これまで古都に水路ではほとんど入って来たことのないものだということになる。
だが、ラインホルトは、知っていた。
「栗、ですね」
冷涼な帝国ではほとんど栽培していない、甘い木の実だ。
固い殻に包まれているのを、向いて菓子にする。
ほう、とゴドハルトが賛嘆の声を漏らした。
他人が自分の知らないことを知っていることに、ゴドハルトは賞賛を送ることのできる男だ。
「たまたまですよ」
そう、ラインホルトが栗を知っているのは、たまたまだ。
たまたま、それが母の好物で、たまたま、父がそれを墓に供えるために取り寄せたから。
ラインホルトの母は、東王国の王府の出身だ。
貴族の出だったのかもしれない。
ギルドマスターの修業のために王府へ見習いに出されていた父セバスティアンと熱烈な恋をして駆け落ちするように、古都へやって来た。
口さがない連中は掠奪婚だと嗤う。
掠奪婚というのは、帝国の北、北方三領邦よりも更に寒い地方に残っている蛮習で、好いた女を掠奪するように連れて帰って結婚することを言うそうだ。
だが、父と母は掠奪婚ではない。
少なくとも、今のラインホルトはそう信じている。
掠奪した妻の墓に毎日毎日、夜明け前に参る男がいるだろうか。
臨終の迫った病床で、ギルドを引き継ぐ息子に、引継ぎではなく、亡くなる母の手を握ってやれなかったと悔やむ男がいるだろうか。
帝国ではほとんど手に入らない栗を、わざわざ仕入れて、愛する者の眠る墓へ供える男がいるというのだろうか。
「これが栗ねぇ」
シロップ漬けを、ゴドハルトがぽいと口へ放り込んだ。
それを見て、ラインホルトはクスリと笑う。
「何がおかしい?」
「いえ、栗は元々、毬に包まれているんですよ」
例えば、海栗みたいに、とラインホルトが説明すると、ゴドハルトがふぅんと頷いた。
食べるのに手間がいる、ということをラインホルトが笑ったと受け取ったようだ。
しかし、本当のところは違う。
苦労して陸路で手に入れた、栗。
それをやっとのことで栗を箱から取り出した父セバスティアンはそれまでの珍しくワクワクした表情から一転して、昏い顔になった。
「あいつは、こんなにトゲトゲした物が本当に好きだったのか?」
森の奥に暮らすという博識の女薬師から正しい調理法を聞くまで、ラインホルトの家では“栗”という言葉は禁句になったものだ。
亡き妻を想って苦労して取り寄せたものの扱いに困った暴君にとって、それは触れられたくないものだったのだろう。
「こちらは?」
ラインホルトが尋ねると、シノブがにこやかに答える。
「栗きんとんと、栗きんとんです」
同じ名前ですけど、二つは違うお菓子なんですよ、とシノブは続ける。
製法が違うのだ、とシノブは熱弁を振るった。
片方は全て栗を使い、もう片方は甘い薯を代用に混ぜるのだという話だ。
作られている地方が違うから、どちらも同じ名前なのにあまり混乱しないんですよねとシノブは笑った。
あちらの若夫婦は大層気に入ったそうで、故郷の弟さんにも作り方を教えてあげるんだって言っていましたよ。
そいつはいい姉さんだ、とゴドハルトが腕を組んで頷いた。
ラインホルトは、思う。
どうして薯を混ぜたクリキントンが存在するのか。
きっと、栗を腹いっぱい食べたい人がいたのだろう。
あるいは、腹いっぱい食べさせたい、誰かのいる人が。
本当のことは知らないが、今のラインホルトは、そう信じたいな、と思うのだ。
「ラインホルトさん、食べないのか。なかなか美味いぞ」
ゴドハルトに促されるように、栗と薯を混ぜて作ったという方のクリキントンを、口にする。
甘い。
とても、甘い。
薯の中に混じった栗を舌で転がしながら、ラインホルトは考えた。
栗はこんなに甘いのに、どうしてしょっぱく感じるのだろうか。
菓子をゆっくり食べるラインホルトの顔を、ゴドハルトが不思議そうに見つめている。
優しい甘さを堪能しながら、ラインホルトは決めていた。
明日は、墓参りに行こう。
丘の上に並んで立つ、父と母のいるところへ。




