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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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ラインホルトと鰻と栗(前篇)

「ダメだな」


 にゅるり。

 ラインホルトの目の前で、大きなウナギが一匹、(かご)の間をすり抜けた。

 もちろん、物の喩えだ。


 特大のウナギは、名前をゴドハルトという。

 古都三大水運ギルドの一つ〈水竜の鱗〉の、ギルドマスターだ。

 交渉の内容は、漁業権の返還だった。


 元々、古都の漁業権はラインホルトの先祖が時の皇帝から勅許状を得て、独占的に管理してきた特別な権利だ。以来、代々〈金柳の小舟〉のギルドマスターが継承してきた。


 古都の運河には大した魚が棲んでいない。

 いや、棲んでいなかった。

 居酒屋ノブのお陰でウナギの利用が広まった今、漁業権の価値は跳ね上がっている。

 ラインホルトが手放さざるを得なかったのは、〈水竜の鱗〉との些細な諍いが原因だった。

 それを返して欲しいという提案をしたのだ。


 もちろん無料でという話ではない。

 話の発端となった、部下の縄張り荒しの詫び料に一般的な利子を付け、それに常識的な迷惑料を上乗せした額を提示したのだ。


 しかし、ダメだった。

 当たり前だ。今の漁業権は、大きな利益を生んでいる。

 しかも、勅許状を持っている限り、永久に利益は生み出されるのだ。古都の人間がウナギを食べ尽くすような莫迦な真似をしなければ、だが。


 つまり、ゴドハルトは言っているのだ。漁業権の今の価値に見合う金額を提示しろ。

 それは至極当たり前のことで、ラインホルトの甘えを見透かしたものだった。

 ゴドハルトが、続ける。


「ラインホルトさん。この際だからこそ、言っておきたい」


 呑み込まれてしまいそうな大きな口でゴドハルトがウナギのカバヤキを頬張った。

 向かいに座るラインホルトも先ほどから同じものを食べているが、脂が乗って実に美味い。

 これだと酒精が欲しくなるが、残念ながら今は昼。

 それも運命を賭した商談の、真っ最中だった。


「オレはね、ラインホルトさん。お前さんの親爺が大っ嫌いだった」


 父親。

 そう、ラインホルトにも父親がいた。

〈金柳の小舟〉のセバスティアンと言えば古都の破落戸(ごろつき)も震え出すような、水運ギルドマスターだったのだ。


 古都三大水運ギルド、などという言い方を、父は好まなかった。

「第一に、〈金柳の小舟〉。それと他に二つの水運ギルドがある。それが、古都だ」

 特別に註文した樫の大ジョッキに並々と注いだエールを飲み干しながら、父親は毎晩同じように語ったものだった。


 まだ仕事の右も左も分からないラインホルトを残して、急逝するまでは。


「〈金柳の小舟〉のセバスティアン。あの剽悍な運河の巨人が何か言えば、オレもエレオノーラの母親も、渋々従うしかなかった。運河に飛び込めと命じられたとしても従っただろう。それほど、お前さんの父親は化け物みたいな男だった」


 湯冷ましの水で、ゴドハルトが口を湿す。


「……そして、皆の憧れだった」


 俯いていたラインホルトは、はっと顔を上げた。

 ギルドでも船着場でも家庭でも暴君でしかなかった父。

 その父のことを他の人間の口から聞くのは、葬儀以来のことかもしれない。


「ラインホルト、お前さんが生まれた晩はひどい嵐だったんだ」


 嵐の夜に生まれた子。そして、生まれたその日に、母と死に別れた子。

 それがラインホルトだ。


「お前さんの出産が危ないという話は、前々から噂になっていた。古都で一番の産婆もお手上げ。セバスティアンは遠くから腕のいい産婆を招いたって話は、水運関係者なら誰でも知っていた」


 ゴドハルトの口から聞く話は新鮮だった。そんな話、誰もしてくれたことはない。


「ところが、嵐だ。ギルドは参加の艀主(はしけぬし)や荷受の人夫を守らにゃならん。いや、守るべきだ、というべきかな? そんなのは建前で、オレの先代も、エレオノーラの婆さんも、早々にギルドの扉に鍵を掛けて、窓に板を打ち付けたよ。それほどに、でかい嵐だった」


 ゴドハルトは話しながらもウナギを食べ続ける。

 食べながら話さなければ、耐えられない何かを吐き出してしまいそうな表情だった。


「……〈水竜の鱗〉に属している艀主も人夫も、随分と行方知れずになったさ。信じられるか? 両手両足の指で数えられないほどだぞ?」


 ラインホルトは頷いた。

 嵐が来ると、誰が止めても艀主は船着き場へ行く。

 自分の艀を守るためだ。


 艀を扱うには、厳しい規矩(ルール)があった。

 誰かの所有する艀を動かすには、その所有者か、属するギルドのマスターの許可が必要になる。

 違反をすれば、厳しい罰が待っていた。


 艀を守るための規矩だが、同時にそれは、艀主を縛る鎖でもある。

 馴染みの艀主に「すまん、艀を守るために手を貸してくれ」と頼まれれば、応じる人夫は決して少なくない。

 恩や縁、そういうもので、運河の水は流れている。


「まだ小僧だったオレは、飯場の隅で毛布を抱えて一晩中、震えていたよ。横殴りの雨が天幕の中までじゃんじゃん入ってきて、毛布がグショグショに濡れちまったのをよく憶えている」


 昨日のことのように、ゴドハルトは話していた。

 ラインホルトはただ黙って聞くしかない。


「翌朝、オレは驚いたね。〈金柳の小舟〉の艀は、全部揃っていた。行方知れずも、出なかった」


 嵐の中で一晩中、セバスティアンが踏ん張っていたからだ。

 艀を動かす許可を出せるのは、艀主か属するギルドのギルドマスターだけ。

 ならば、ギルドマスターさえその場にいれば、被害は最小限に食い止められる。


「……死んだのは一人だけ。お前のお袋さんさ」


 難産だった、とは聞いていた。

 本当なら、傍にいてやりたかったはずだ。

 それよりも父セバスティアンは、ギルドマスターとしての職責を優先した。

 自分の家族よりも、もっと多くの家族のために。


 ふとラインホルトは、自分が何故父をあまり好いていなかったのか、思い出した。

 死に際の母の手を握ってやれなかったと自嘲気味に呟いたのを耳にしたからだ。

 その時も、嵐の夜の話は一言もない。

 結局、何の言い訳もせずに、ギルドマスターは逝った。


「お前さんの親爺さんがぽっくり逝ったとき、〈金柳の小舟〉はなくなると思っていた」


 それはそうだろう。

 歴史と伝統はあっても、頭はいない。そんな組織が続くはずがなかった。


「言い訳がましい話だが、オレもエレオノーラの母親も、沈み掛けの舟から助け上げるつもりで、艀主や人夫に声を掛けて回ったんだ。皆、生活があるからな」


 その声かけで、〈金柳の小舟〉から、半分の構成員が去ったのだ。

 いや、半分の構成員が、残った。


「声を掛けても応じなかったのはな、熟練の、年嵩の、腕利きの、こちらのギルドとしても是非、来て欲しいって艀主が多かったな。でもみんな、同じことを言うんだ」


 でもね、アンタのギルドでは嵐の晩にギルドマスターが出張ってくれますかね。



 目を閉じた。

 顔を、拭う。

 それでも、止まらなかった。


 何も遺してくれなかったと恨んでいた父は、実は全てを残してくれていたのだ。


「オレはな、ラインホルトさん」


 俯くラインホルトに、ゴドハルトは続ける。


「こういうと照れくさいが、お前さんの父か兄の代わりと思って接していたところがある」


 父は言い過ぎか。なんせ並の男じゃセバスティアンの代わりは務まらんからな、とゴドハルトは忍び笑いを漏らした。

 ラインホルトは、頷く。

 見守ってくれているという、温かさは感じていた。


 ゴドハルトだけではない。エレオノーラもだ。

 陰に日向に手を貸してくれる二人がいなければ、今の〈金柳の小舟〉はない。


「その兄代わりから一つ言わせて貰うぞ、ラインホルト」


 大事なことは、一つずつやれ。

 ラインホルトの両肩に手を置いて、ゴドハルトは忠告した。


「お前さんが新しくはじめようとしていることは、正しい。間違いなく、正しい」


 造船所のことだ。

 古都の下流にそれなりの土地を押さえ、平底舟の造船所を建設していた。

 秘密にしているつもりだったが、完成したとあっては隠しようもなかったか。


「焦るな。成功している時にしか新しく手を広げられないのは事実だ。でもな、六割で自分が手を引いても上手くいく仕事と、七割まで面倒を見ないといけない仕事を間違えるな」


 ラインホルトはドキリとした。

 確かに最近、造船所のことにあまり気持ちを割いていない。

 もう手を離してもどうにかなるだろうと思っていた。そこを、衝かれたのだ。


「……はい」


 何に対しての、はい、なのか。

 ラインホルト自身にも分からない。

 それでも、両膝の上に拳を固く固く握りしめ、ゴドハルトに頷くことしかラインホルトにはできなかった。



 コトリ。

 二人の目の前に、小皿が置かれたのはその時だった。


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― 新着の感想 ―
ゴドハルト、本当にいい漢だなぁ。
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