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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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秋茄子と旧い神(前篇)

「いや、ほんとに見たんだって! 婆さん……いや、ちょっと違うか。大人しそうなお婆ちゃんが杖一本で破落戸(ごろつき)共をぶっ倒してたんだよ!」

「さすがにそれはねぇよ、フランク。昼間っから飲み過ぎだ」

「本当だって!」


 秋の夜長。

 居酒屋のぶは、今日も大繁盛だ。

 酒と肴と噂と洒落が飛び交い、酔客たちが賑やかに盃を交わし合う。


「今日も賑やかですね!」


 皿洗いをテキパキとこなしながら、エーファが額の汗を拭った。

 しのぶから見てももう十分に頼りになる店の一員だ。


「その繁盛している日に悪いんだけどね」


 ぬっとカウンターから顔を突き出したのは、イングリドだ。

 銀髪をさらりと靡かせる薬師は、今でこそ〈馬丁宿〉通りになくてはならない薬師として有名になっているが、昔は魔女ではないかという疑惑もあった、不思議の多い人物だった。

 最近は髪染めや頬紅、口紅のような流行の化粧品の類いも売り出して、大忙しだという。


「エーファをですか?」


 信之が尋ねると、イングリドの弟子のカミラが神妙な顔で頷いた。


「今日は空閨(うつねや)の夜だからね」

「空閨の夜?」


 尋ね返すしのぶに、イングリドがジョッキで口を湿しながら微笑んだ。


「この辺りの古い慣習だよ。よほどの年寄り以外は、もう誰も憶えてないんじゃないかねぇ」


 そういうとイングリドはもう一杯のビールを註文しながら、昔語りをはじめた。


「昔々、この辺りに広がる黄金色の麦畑が全部、鬱蒼とした黒の大森林に覆われていた頃の話さ」


 話がはじまると、騒々しかった店内が、途端に静かになる。

 肉屋のフランクの与太話よりもイングリドの不思議な話の方が人の耳を引き付けるのだろう。


「人と精霊(アールヴ)は、今よりもうちょっとだけ近しい存在だった。旧い街道で顔を合わせば挨拶を交わす程度には、親交があったんだよ」


 精霊(アールヴ)

 古都の人と暮らすようになって、しのぶも時折耳にする言葉だ。

 妖怪のようなものかと思っていたのだが、信之によるともう少し違う存在らしい。


「古都はその頃からあったんですか?」


 挙手して、エーファが尋ねる。

 皆、そこは気になっていたようで、イングリドの口元に視線が集まった。


「それがね、あったんだよ」


 古帝国、つまり今の帝国よりも前のルーオ帝国というのは聖王国の位置に首都があったんだが、想像もできないくらい栄えていた。

 このアイテーリアはルーオ帝国の人々が、遥か北の土地を開墾するために作った入殖都市の一つだったらしいんだよ。まぁ、それも全部歴史の話さ。

 今でも市参事会の建物の石段や聖堂は、古帝国時代の礎石がそのまま残っているがね。


 へぇ、とか、ほぉ、とかいう声が客の間から上がる。

 この街はそんなに古くからあるのか、と誇らしげな表情をする客もいた。

 話の合間、合間にリオンティーヌに註文をする客もいるから、店としては困らない。


「ある時アイテーリアを飢饉が襲った。まだ古都じゃなかった時代のこの街をね。年代記によると冬が早く来たと書かれている。麦は収穫前に枯れ、豚も牛も、肥え太る前に痩せて死んだ」


 その話を聞いて震えるのは、肉屋のフランクだ。

 どれだけ恐ろしいことか、想像がつくのだろう。


「早々に南へ逃げる人達もいたが、どうなったかは分からない。記録が残っていないからね。ただ、この街に残る決断をした人たちは、精霊(アールヴ)に頼んでみようと思いついた」

精霊(アールヴ)に?」


 聴衆がざわめくのも、無理はなかった。

 精霊というのはもっと縁遠い存在だと思っていた。少なくとも、食糧の貸し借りを頼めるような相手ではない。


「予想外に精霊は、結構簡単に援助を申し出てくれた。レープクーヘンって菓子を知ってるかい? アレと似た精霊の食べ物を提供してくれることになったんだ」


 クッキーのような菓子だ。しのぶも、エーファとヘルミーナと一緒に買い食いしたことがある。


「アイテーリアの人々は、喜んだ。精霊の運んできた食糧は、秋と冬を越してなお余りあるほどの量があったからね。そこで当時のアイテーリアの長、オルランドは精霊に尋ねたのさ。何かお礼は要りますか? ってね」


 イングリドの横で林檎のジュースを飲んでいたカミラが、呟いた。


「それが、〈空閨の夜〉」


 弟子の言葉に銀髪の薬師は優しく頷く。


「昼と夜の長さがぴったり同じになる秋の日の後に、一晩だけベッドを貸して欲しい。それが、精霊の出した交換条件だった」


 昼と夜の長さがぴったり同じになる、ということは秋分だ。

 昨日がアイテーリアの秋分だったはずだから、まさに今日だということだろう。


「ベッドを貸すと、どうなるんだい?」


 酔客の一人が、不安げに尋ねた。


「精霊が客を招くんだよ。旧い旧い神様が、この辺りを訪れるんだそうだ。それで、寝床が足りなくなるから、貸して欲しいという話だった」


 ここでイングリドは、にやりと笑う。


「つまり、この日限りは子供も大人も夜更かしに口実ができるっていう寸法さ」


 なにせ、ベッドが使えないんだからね。

 イングリドの言葉に、店のあちこちで乾杯(プロージット)の声が上がった。

 別に旧い神にベッドを貸そうが貸すまいが、平気で夜更かししているような連中だが、言い訳ができるのは嬉しいらしい。


「そういう次第で、エーファを借りにお伺いしたってわけさ」


 急に話を振られたエーファは、驚いたようにイングリドに問い質す。


「なんで私が出ていくのかよく分からないんですけど……それと……」


 何かを言いにくそうなエーファに、イングリドは「こいつはうっかり」と額を叩く。


「この話を、司祭のトマスにしたんだよ。異教の伝統を調べているっていうからね。そうしたら、あちらの方からお誘いがあったんだよ。秋茄子を収穫に来ませんか、ってね」


 トマスをはじめ、アイテーリアの教会はこの辺りの扱いが緩やかだ。

 なにせ上役であるところの管区大司教のロドリーゴからして、一時期は魔女探しなんて事をしていたのだから、無理からぬことかもしれない。


「そういうわけで、私は老骨に鞭打って今から聖堂の畑で秋茄子狩りをする子供たちを引率するという重大な任務がある訳さ」


 へらへらと笑ってみせるイングリドの瞳の奥から、しのぶは真意を汲み取った。

 夜更かしした子供を好き放題にさせておくよりも、一か所に集めた方が監視もしやすいし、事件事故にも巻き込まれにくい。


「じゃ、じゃあ、あの!」


 既に行く気になっているエーファが、何か言おうとする前に、カミラが微笑んだ。


「アードルフ君とアンゲリカちゃんなら、エトヴィンさんがもう迎えに行ってるよ」


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