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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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兄、来たる(後篇)

 まるで散歩から帰ってきたかのような挨拶をするエグモントの胸に、エーファが飛び込む。

 エーファを抱き抱えてぐるりと回して見せるエグモントの膂力はさすがに漁師だ。


「父さん母さんと下の二人は元気か?」


 両親と下の二人の兄妹、アードルフとアンゲリカのことを気遣うエグモントに、エーファは元気いっぱいに近況を伝える。


「あ、そうだ! タイショーさん、シノブさん、エグモント兄さんにお腹いっぱい食べさせてあげたいんですけど」


「え」


 満面の笑顔で提案するエーファに、エグモントは引き攣った笑みを浮かべた。

 つい先ほどまで炊き込みご飯を鱈腹食べていたところだ。

 もう一口も入らないと匙を置いたのをしのぶはしっかりと見ている。

 あまり嬉しそうには見えないエグモントの様子に、エーファは何かに気が付いたようだ。


「エグモント兄さん……」

「エーファ……」


 兄妹の視線が交錯する。


 以心伝心。

 しのぶや信之から見ても、麗しい光景だ。

 言葉を交わさずとも分かり合う、ということは素晴らしい。

 エーファがとびきりの笑顔でエグモントの首に飛びついた。


「エグモント兄さん、支払いのことなら心配は要りません。私もちょっとは稼いでいるんです。兄さんの腹がはち切れるまで食べても大丈夫ですよ!」


 言うが早いか、エーファは誇らしげに註文を信之に伝えていく。


「まずはテンプラ! エグモント兄さんは海辺に住んでいるので、魚よりも野菜を中心にお願いします! それからうちで採れた馬鈴薯(カルトッフェル)を使った肉ジャガ! あとこれは絶対に外せないのが、ワカドリノカラアゲですね。エールに合うと大評判です!」


 あとは肌寒くなってきたから、オデンにアンカケユドーフもと指折り頼むエーファの註文は一向に留まるところを知らない。

 矢継ぎ早の註文はどれも居酒屋のぶを訪れたらこれは食べて欲しいというものばかりだ。


 しかし、今のエグモントには非常に酷な註文ばかりだった。

 厨房で下拵えをしているハンスも、本当に作業に取り掛かっていいものか不安げに信之としのぶの顔を見較べる。


「あ、あのね、エーファちゃん。実はエグモントさんはエーファちゃんが来る前に……」


 エーファの気持ちは大事だが、さすがにここで食べさせてはエグモントの身が危ない。

 しのぶが事情を説明しようとするのを、エーファは片手で遮った。


「分かっています。エグモント兄さんにそう言うように頼まれたんですよね」


 エグモントの悪い癖だとエーファが怒った。

 自分はお腹いっぱいだからとエーファやアードルフ、アンゲリカの為にいつも食べ物を譲ってくれたのだという。

 冬の寒い日、ひもじいエーファや弟妹にパンやシチューを分けてくれた兄。


「その恩返しをしないといけないんです」


 いつになく迫力の籠った声で拳を握るエーファには、しのぶも胸を打たれるものがあった。

 しのぶの脳裏に、のぶへ来たばかりのこの赤毛の少女の姿が過った。

 あの時のエーファも自分のまかないを我慢してでも、弟と妹のために食事を持ち帰ろうとした。

 きっとそれも、エグモントやその他の兄姉のことを見て育ったからこそに違いない。


 しかし、エグモントがこれ以上食べるのは難しいだろう。

 どうしたものかとしのぶが困惑していると、エグモントがにこやかに笑った。


「ありがとう、エーファ。兄として妹に奢ってもらうのは少し妙な気分もするが、ここはありがたくごちそうになるとしよう。それと、もう一つ、頼まれて欲しいことがあるんだが」





「いただきます!」

「いたらきます!」


 居酒屋のぶに、明るい声が響いた。

 エーファが呼びに走ったアードルフとアンゲリカの二人、それにエグモントとエーファが一つの一つのテーブルを囲んで座っている。


 家族の、団欒だ。

 テーブルの上には、秋野菜の天ぷらから若鶏の唐揚げ、肉じゃがに餡掛け湯豆腐とおでんが所狭しと並んでいる。

 料理はエーファが選んで註文したものだ。

 もちろん、エグモントの手にはビールが並々と注がれたジョッキが握られていた。


「お父さんとお母さんも来れたら良かったのにねぇ」


 一番末の妹、アンゲリカが口に木匙を突っ込んだままで呟く。

 本当は両親も招きたかったのだが、二人は泊りがけの村の寄り合いで今日は帰らないのだという。


「大丈夫。またきっと機会があるさ」


 エグモントがわしわしとアンゲリカの頭を撫でた。

 漁師の休みの残りを計算すると、今回の帰郷ではエグモントは両親に会えず仕舞いになる。

 もっと気軽に帰って来れればいいんだがなぁと苦笑しながら、エグモントは餡かけ湯豆腐に舌鼓を打った。

 エーファが弟妹を呼びに行っている間、必死に通りを走って腹を空かせていたのだ。


「エグモント兄さん、このワカドリノカラアゲが美味しいよ!」

「あ、ずるい、アードルフ兄ちゃん! アンゲリカのワカドリノカラアゲの方が美味しいの!」

「はいはい、分かった分かった。エグモント兄ちゃんがどっちも食べてやるからな」


 二人から唐揚げを勧められるエグモントに寄り添うように、笑顔のエーファが座っている。

 一番上の姉、という役割から解放されたエーファの表情はいつもより柔らかい。


 エーファの笑顔を見て、しのぶは反省した。

 しっかりした印象の強いエーファだが、こんな風に年相応の顔もするのだ。

 ひょっとすると、今まで自分はエーファに頼り過ぎていただろうか。

 自分がエーファの年の頃のことを考えれば、もっと甘えたい盛りだったような気がする。


 何か言おうとして振り返ると、信之が頷いた。

 働き方は、エーファの決めることだ。そう言われたような気がする。

 それもそうだ。


 しのぶが大学に通っていた年の頃には、信之はもう〈ゆきつな〉の厨房に立っていた。

 働き方を選ぶのは、自分自身だ。

 エーファは贖罪のためとはいえ、自分自身の意思で働くことを決め、しのぶが安心して仕事を任せられるほどに成長した。

 ここでエーファの仕事の量を勝手に相談もせず減らしたりすれば、それはエーファにとって却って失礼になるだろう。


「このテンプラってやつ、美味いな……」

「アンゲリカのテンプラも食べて!」


 兄妹の仲睦まじい声は〈馬丁宿〉通りにまで響いているようで、何事かと中を覗き込む通行人もいるほどだ。

 和やかな夕食会は、日が暮れて通常営業がはじまるまで続いた。


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