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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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兄、来たる(前篇)

「三番目の兄なんだよ、エーファの」

「三番目のお兄さんですか、エーファちゃんの」


 エグモントと名乗った筋骨逞しい大男は、手も口も止めずにそう説明した。

 髭面で上背もあるが、特徴的な赤い髪を見ると、確かにエーファの兄のようだ。


 開店前にしのぶが通りを掃除しようとしたら、エグモントが店の前に寝転がっていた。

 衛兵隊を呼ぶべきか逡巡している間に、エグモントの腹の虫が特大の鳴き声を上げたので、ひとまず腹ごしらえをしてもらおうということになったのだ。

 聞けば、出稼ぎ先に妹のエーファからの手紙に〈馬丁宿〉通りの居酒屋ノブと書いてあったのだという。


 それにしても。


 しのぶは空になった丼に炊き込みご飯をよそう信之を見ながら、驚嘆の溜め息を吐いた。

 凄まじい、としか言いようのない食慾だ。

 口回りの髭が汚れるのも構わずに、もりもりと食べ続ける。


 店に入ったエグモントの註文は単純極まりないものだった。

 懐具合を気にしてか、エールと馬鈴薯(カルトッフェル)で十分。

 もしくは何でもいいから安くて腹の膨れるものを、たっぷりと。

 味はともかく今は腹がくちくなるまで食べ物を詰め込みたいと、どことなくエーファの面影のある顔に書いてあった。


 そう言うエグモントの註文に、大慌ててしのぶと信之の用意したのは、炊き込みご飯だ。

 秋の味覚をたっぷりと使った逸品で、今日はこれを中心に売っていこうというつもりだったのだが、別のものを考えた方がよさそうだ。


「……それにしても、惚れ惚れする食べっぷりですね」


 しのぶの言葉に、エグモントは少し照れたように頭の後ろを掻いた

 お代わりをよそう信之も、これだけの食べっぷりに言葉がない。

 健啖家といえば常連の中では肉屋のフランクと、天ぷらに限ればアルヌが大したものだが、それに勝るとも劣らないだろう。


 喋る暇も惜しい。

 エグモントの顔にはまるでそう書いてあるかのようだ。木匙が動くたびに丼の中身が口の中へと消えていく。

 肝心のエーファはまだ来ていないが、来れば正体もはっきりするだろう。


「へぇ、北の港町から」

「そう、ちょうど休みが出たもんでね」


 なんでも出稼ぎ先からずっと歩いてきたのだという。

 北の港町というから、ヘルミーナの実家のある街だ。健脚のベルトホルトでさえ行き来に馬車を使っていたはずだから、相当の距離があるのだろう。


「漁師さん、ですか」


 ええ、まあ、漁師といっても見習いみたいなもんですがと人心地ついたエグモントが照れ臭そうに腹を撫で摩った。

 食べられる内に、食べられるだけ食べる。

 不安定な漁師見習いの生活では、一度食いっ逸れると二日でも三日でも水以外口にできないことがあるのだとか。

 だからこそ、食べるときには腹の皮が破れそうになるまで食べる。

 それがエグモントたち漁師見習いの生き方なのだ。


「〈魚島〉がまだだからね」

「〈魚島〉、ですか?」


 古都の北、港町の面する湾では冬の訪れと共に西から魚の群れが訪れる。

 ナガヒレニシンという魚の背の色で海が見えなくなるほどの魚の群れのことを、漁師たちは昔から〈魚島〉と呼んでいるらしい。


 名前の由来はそのものずばり、海の上に魚の島ができているように見えるからだという。

 船を出して網を突っ込みさえすればそれだけでもう大漁は確定だ。

 そういえば昔、ヘルミーナからそういう話を聞いたことがあった。


〈魚島〉の訪れは鳥を見て期日を知るのだという。

 獲っても獲っても獲りつくせないほどの、魚の群れ。

 北の漁師は〈魚島〉の時期を毎年、待ち侘びているのだ。

 これほど楽な商売はないが、問題はその後だった。


「ナガヒレニシンは足が速いからさ」


 要するに、腐りやすい。

 日本語でも「鯖を読む」というが、水揚げして何日経ったかは魚の値段に直結する。

 ナガヒレニシンも例に漏れず足が速いので、たくさん獲れても保存の方に手間と知恵とを割かねばならないのだとエグモントは口元を腕で拭った。


 塩漬けや天日干しで少しでも長持ちさせるように工夫しているというが、それには人手も要るし、塩も要る。

 エグモントやその仲間たち漁師見習いは、ナガヒレニシンを塩漬けにするために魚を下ろしたり開いたり塩で揉んだりに大忙しなのだという。

 だから、〈魚島〉の前には休みが出るということらしい。


「その前に久しぶりに実家へ顔を出しておこうと思ったってわけなんだな」


 言いながらエグモントが懐から取り出したのは、手紙だった。


「本当にエーファは立派に育ったよ」


 貧しい農民であるエーファの両親は、字が読めない。

 エーファの両親だけではなかった。

 この辺りに住む多くの人々は、貴族や商人、聖職者、その他に必要のある人々を除いてほとんどが読み書きを学ばずに生きている。

 当然、エーファの両親は子供たちに読み書き算盤を教えることができなかった。


「うちの両親は信じられないくらい仲がいいから兄弟姉妹は莫迦みたいに多いんだけど、結局満足に読み書きできるようになったのは、二番目の兄貴とエーファの二人だけだなぁ」


 大したものだとエグモントは歯を見せて笑う。

 古都を取り巻く城壁の周囲に苔がへばりつくように暮らしている農民たちの中では、自分の名前が書けるというだけでも立派なものだと見做されるのだ。


 こまめに届けられるエーファの手紙を友人に読んでもらうのが、エグモントの日々の楽しみなのだという。

 読み古したのを何度も丁寧に伸ばした跡の窺える手紙を、赤髪の漁師見習いは赤銅色に焼けた太い指先で折り畳むと、宝物のように懐へ仕舞った。

 エーファのことを語るエグモントの顔には、兄弟姉妹を誇りに思っている様子がしのぶからもありありと見て取れる。


「遅くなりました!」


 その時、硝子戸が開いた。

 矢のように飛び込んできたのは、エーファだ。

 よほど急いで走ってきたのだろう。

 まだ息を切らしたままのエーファの視線が、カウンター席に腰を下ろした人影に奪われた。


「あれ? え?」


 そこにいるはずのない人物。

 会いたいと願いつつも、距離に阻まれてなかなか会うことのできない兄。


「よ、エーファ。久しぶりだなぁ」


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