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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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完璧な昼ごはん(後篇)

 細かく挽いたソバ粉を水で溶き、塩をほんの少し加える。

 金持ちの商人は甘く焼いて果物を巻いたりするというが、ニコラウスにはこっちの少し塩味が効いた方が馴染み深い。


 リュービクは手慣れた仕草でフライパンに油を引くと、溶いたソバ粉をとろりと広げた。

 ニコラウスの見ている前で、薄く延ばされた生地にぷつぷつと泡が出来はじめる。

 子供の頃、この泡を見ているのが好きだった。

 ほんのりとソバの香りが漂い、空腹を刺激する。


 今でこそ〈鳥娘の舟歌〉で三度三度の食事に不自由はしていないが、衛兵になる前のニコラウスにとって、昼に食事を摂るというのは贅沢の部類に入ることだった。

 ニコラウスが特別貧しかったわけではない。

 季節によって実入りに差があっても、古都に暮らす住民のほとんどは大体似たような懐具合だ。


 朝昼晩と三度の食事が食べられれば儲けもの。一日二食という日もざらにあったし、テーブルの上に並ぶ皿もそれほど豪華とは言えない代物だ。

 子供はいつも空きっ腹を抱えていたし、親は子供のためにやせ我慢をしていた。


 冬になればパン(ブロート)の値は吊り上がる。

 こればかりは市参事会でもどうしようもない。

 流通が滞り、小麦そのものの値段が上がってしまうのだから、パン職人たちに無理を言うこともできないからだ。

 小麦不足で小さく痩せたパンや、油を搾った後のクルミの滓で嵩を増したパンをスープ(ズッペ)で流し込みながら、子供たちは春を待つことになる。


 そんな時、古都の母親達はソバ粉でガレットを焼いた。

 小麦より安いソバは馬鈴薯(カルトッフェル)と並んで、冬場の重要な食糧だ。

 母親がフライパンの底を叩くと、路地を走り回ってお腹をぺこぺこに空かせた子供たちは我先にと家へ帰る。

 そして、母親の焼くソバのガレットが焼き上がるのを、じっと見ているのだ。


 もちろん、大した具なんて入っていない。

 ハムの切れっ端や、チーズの欠片。

 酷いときには、具無しのガレットなんてことも珍しくなかった。

 それでも、温かなガレットを頬張っただけで、何となく嬉しい気分になったものだ。


「さて、と。そろそろいい具合かな」


 リュービクが手際よくパラパラとチーズを振りまく。

 今日のガレットは、ガレット・コンプレット。

 チーズにハム、そして鶏卵の載ったガレットだ。

 コンプレットの意味は、東王国の言葉で〈完璧〉。


「お待ち遠さま」


 リュービクがフライパンから皿の上に滑らせたのは、正に〈完璧〉なガレットだった。

 皿を両手で捧げ持ち、目を瞑って香りを嗅ぐ。

 これだ。

 このソバの香りが、嗅ぎたかった。


「それじゃ、さっそく」


 ナイフとフォークで切り分けると、卵の黄身がとろりと溢れる。

 パクリ。

 パリッパリに焼けた薄焼きの生地に、ハムとチーズの塩気が絶妙なハーモニーを奏で、それを卵の濃厚な味わいが優しく包み込む。


 美味いよりも先に、凄い、という言葉が先に出た。

 なるほど、さすがは古都でも名高い〈四翼の獅子〉亭の厨房を背負って立つ看板料理人というだけのことはある。


 一口食べると、手が止まらない。

 パクリ。

 パクリ。


 チーズの多い部分。

 ハムの多い部分。

 卵のたっぷり絡んだ部分。


 ほんの少し位置が違うだけで、リュービクのガレットはそれぞれ違った味わいをニコラウスに楽しませてくれる。

 もちろん、パリッパリに焼けた生地も美味い。


「美味しいです!」

「これはなかなか」

「なるほど、こういう味か……」


 リュービクが次々と焼き上げるガレット・コンプレットに、シノブやエーファ、タイショーも舌鼓を打っている。

 ふんふんと頷きながら食べているのは、東王国出身のリオンティーヌだ。

 聞けば東王国でも南部の方ではあましソバを食べないそうで、ガレットを見たのも今日がはじめてなのだという。


「パリパリしててなかなか面白い食感だねぇ。これならいくらでも食べられそうだ」


 そのパリパリに焼くのが難しいのだ。

 小麦粉を混ぜれば厚みも出て焼きやすくなるが、ニコラウスは水だけで溶いた薄手のガレットの方に馴染みがあった。


「どんどん食べてくれよ。お代わりならいくらでも焼くからさ」


 思わず夢中になって食べていると、後ろで硝子戸が引き開けられる。


「ねぇ、ここにニコラウスが来ていない?」


 聞き覚えのある声に振り返って見ると、そこには見知った姿があった。

 エレオノーラだ。

〈鳥娘の舟歌〉のギルドマスター、つまりはニコラウスの上司に当たる。

 ニコラウスの姿を認めると、エレオノーラはつかつかと歩み寄ってきた。


「あ、すみません。古都へ帰って来てたのに報告にも行かずに」


 今日の任務には、若干の危険があったのは事実だ。

 河賊の出る場所を探索する訳だし、舟が転覆すれば溺れる可能性だってある。

 本当なら真っ先に〈鳥娘の舟歌〉に、いや、エレオノーラに報告に向かうべきだった。


「……いいのよ、別に。心配していたわけじゃないし」


 ニコラウスから顔を背けながら、エレオノーラはするりと隣へ腰を下ろす。

 いつも通りに爪の様子を確かめる彼女の、心配していないという一言がニコラウスの胸にちくりと刺さった。


 衛兵隊を円満退職した今のニコラウスの〈鳥娘の舟歌〉での立ち位置は、ギルドマスターであるエレオノーラの秘書ということになっている。

 予定の管理や面会の取次に、帳簿の確認の手伝いに到るまで。


 ニコラウスとしては公私共に支えているつもりだったが、エレオノーラにとっては取り替え可能なその他大勢の一人だった、ということだろうか。

 ガレットの端の焦げた部分が、妙に苦い。


「……あーあ、安心したら何だかお腹が空いちゃった。ね、リュービクさん。私にもガレット・コンプレット、焼いて下さる?」


 安心、という言葉を聞いて、ニコラウスの頬が微かに緩んだ。

 どうやら心配してくれていなかったというわけではないらしい。

 わざわざ指摘するような野暮はせず、ニコラウスはリュービクにお代わりを註文する。


「あらニコラウス。貴方、まだ食べるの?」

「ええ、コンプレットな昼食ですからね」


 美味い料理を、自分の好きな場所で、自分の好きな人と食べる。

 これぞ、完璧なお昼ご飯に違いない。


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