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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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とりあえずトリアエズナマ(前篇)

 気の早い冬の陽が沈むと、古都に底冷えのする夜が訪れる。

 雲一つない晩は、特に冷え込みが厳しい。

 こういう夜は、さっさと愛する妻と子のいる家に帰るに限る。


 古都の安全を守る衛兵隊の中隊長、ベルトホルトは訓練を終える指示を出すと、一目散に家路へと就こうとした。

 生まれたばかりの双子はかわいい盛り。ぐずる様さえ可愛らしい双子と、育児疲れの妻の為に、一刻も早く家へ戻らねばならない。お襁褓(むつ)洗いに掃除に自分たちの分の洗濯。家に帰れば、ベルトホルトの仕事はたっぷりある。


「中隊長、少々お待ち下さい」


 今まさに訓練場から立ち去ろうとしたところで、不意に声を掛けられた。

 振り向くまでもない。この声は、イーゴンだ。

 最近衛兵隊に所属した衛兵で将来有望。ベルトホルトも、ゆくゆくは彼に中隊の中核を担って貰おうと考えている。

 イーゴンの方もそれに応えるように、自分から訓練の改善案を提案してきたり自分で街の情報を収集したりと、めきめきと頭角を現しつつあった。


「今日もご苦労だったな、イーゴン。仕事の話なら、明日の訓練の時に聞こう」

「いえ、中隊長。今日は、重大な用件なのです」


 振り向いてみれば、そこにいるのはイーゴンだけではない。

 ヒエロニムスという名前の、兵站担当の男もいる。細身で無口な糸目の男だ。

 まだ年若いはずだが、祖父の代から兵站の仕事をやっているので、衛兵隊での古株と言える。


 兵站というと小難しいが、言ってしまえば衛兵隊の何でも屋だ。遠出の訓練の時の食糧や武器の調達、怪我人が出たときの治療の手配から、新人衛兵の募集までを一手に引き受けている。

 彼が出てくるとなると、本当に重要な話だ。そして、恐らくは厄介な。

 ひょっとすると、一般の衛兵の耳に入るのはあまり好ましくない話かもしれない。


「……なるほど、場所を変えようか」


 ベルトホルトは観念した。これは家に帰るのが遅くなるのも致し方ない。

 妻が心配しないよう、暇そうにしていた若手の衛兵に言伝を託す。

 二人を連れて行くのは、もちろん、あの店だ。




「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」


〈馬丁宿〉通りにある、一風変わった居酒屋、ノブ。

 いつも美味しい料理と肴でもてなしてくれる、ベルトホルトの行きつけだ。

 イーゴンは一度連れてきた後も何度か自分でノレンを潜っているようだが、ヒエロニムスと訪れたのは今日がはじめてだった。


「へぇ、ここが居酒屋ノブですか」


 噂だけは聞いていたのか、ヒエロニムスが物珍しそうに店内を見回す。

 ちょうどいい具合に奥のテーブルが空いていたので、シノブに頼んで通して貰った。


「で、重大な用件というのを聞かせてもらおうか」


 家で待っている子供たちとそれを背負うヘルミーナのことを考えると、ベルトホルトの腰は落ち着かない。さっさと話しを切り上げて家に帰ってしまいたい。


「まぁその前に飲み物を」


 ヒエロニムスがさっと手を挙げ、リオンティーヌを呼んだ。

 飲み物、と言われてベルトホルトは身体が冷えていることに気が付いた。どうせここまで来たのだから、一杯ひっかけて帰るというのも選択肢としてないではない。


 さりとて、トリアエズナマという気分ではなかった。

 なんと言っても、今日は冷える。

 寒中行軍の練習と称して部下たちをアルブルクの森まで往復させたので、身体はすっかり冷え切ってしまっていた。


 こういう日は、はじめからアツカンという手はどうだろうか。

 少々周りは早くなるだろうが、なに、構いはしない。酔いが回ったふりをしてさっさと家に帰ってしまうという手もある。

 悪巧みを終えたベルトホルトが口を開くのを遮るように、イーゴンが註文した。


「それでは、とりあえずトリアエズナマを三つ」


 はいよ、とリオンティーヌが気持ちのよい返事をする。

 完全に、機先を制されてしまった。

 三つ、ということはベルトホルトの分も入っているのだろう。

 トリアエズナマに不満があるわけではないが、しかし気分はアツカンだったのだ。


 アツカンで身体を温めつつ、ちょっと濃い味付けの肴を二、三つまむ。そういう戦術を組み立てはじめたところに、トリアエズナマ。

 ここで註文を取り消すのも大人げないが、やるせない気持ちがベルトホルトの中に渦巻いた。


 そもそも今日は飲みに来ようという気分ではなかったのに。

 眉間にしわを寄せつつヒエロニムスの方を見ると、ヒエロニムスもヒエロニムスでまた何か言いたげな視線をイーゴンに向けている。


 思い返せば、ヒエロニムスは大の蜂蜜酒(ミード)党だ。

 どんな飲み会でも、はじめから終わりまで一貫して、蜂蜜酒。夏でも冬でも、蜂蜜酒。

 勝手に飲み物を註文されていい気のするはずがない。


 オトーシのハマグリのニツケにハシを伸ばしながら、ベルトホルトは渋面を作る。

 これで詰まらない用件だったら、如何に将来有望なイーゴンといえども、しっかりと叱りつけねばならないと覚悟を固めた。

 いや、将来有望であるからこそ、しっかりと言ってやらねばならないのだ。


 むやみやたらと仕事の話を飲み会に持ち込まない。

 飲み会では好きな飲み物を各自が註文する。

 それが、諍いなく酒と肴を愉しむ秘訣だ。ここのところをしっかりと教えてやらねばなるまい。


 しかしまずは、用件だ。

 運ばれてきたトリアエズナマのジョッキに口を付ける。


「……んっ」


 口の中はすっかりアツカンの口になっていたのだが、飲んでみれば飲んでみたで、やはりトリアエズナマも美味い。

 ついついごくごくと喉越しを楽しんでいたら、三分の一ほど空にしてしまった。

 ヒエロニムスもヒエロニムスで、トリアエズナマを美味そうに啜っている。


「さ、それで、イーゴン。重要な用件というのを話してもらおうか」


 ジョッキを運んできたリオンティーヌの方をちらちらと気にしていたイーゴンが、一つ大きく咳払いをした。

 やはり、改まった話なのだろうか。


「実は……その、今日中隊長にご相談申し上げたいのは……」


 ふむ、とベルトホルトは腕を組んだ。古代の英雄のような風貌のこの新人の口から、どんな難問が飛び出すのか、少し楽しみになってきてもいる。



「実は、女性、についてなのです」


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