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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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大市(前篇)

“商いの幸と不幸は畑の畝を横切るようなもの。下りがあれば、次は上る”


 マルコが遍歴商人をはじめた時に随分と世話を焼いてくれた老商人の口癖だ。

 元は俚諺(ことわざ)の類いだという。

 大層含蓄のある言葉だ。


 昔は僧侶になりたかったというこの老商人から、マルコは商売の基本を教わった。

 学のある老商人の言葉は今でも折に触れて思い返す。

 この老商人、学はあったが商才の方はなかったようで、畑の畝どころか崖でも下るように財産を失って、孫夫婦の家に転がり込むようにして商売を辞めたようだ。


 それもまた、人生なのかもしれない。

 先日のマルコは、畑の畝を敢えて下った。

 運河沿いの店舗兼住居兼倉庫に、手持ちの資金をほとんど吐き出したのだ。

 莫迦な買い物と罵られれば、その通りと頷くしかなかった。

 早く腰を落ち着けたいという逸る気持ちに目が曇っていたとしか思えない。


 それが、今はどうだ。

 マルコの目の前には、束になった手紙が山と積まれている。


「店を買いたい」


 例の晩餐会の翌朝から、マルコに手紙が届きはじめた。

 悪い冗談だと思って捨て置いたのは差出人のせいだ。

 質のいい封筒に、便箋。捺してある封蝋は、今をときめく大商会の紋章だ。


 冗談にしても莫迦にした話である。

 マルコでも名前を知っているような大商会が、少し前まで遍歴商人だったマルコに立派な封蝋を捺した手紙を送ってくるはずがないではないか。


 ところが、手紙は一通ではなかった。

 肉屋の徒弟が届けてくれる手紙を、マルコは一通一通丹念に確認する。

 全て、店を売ってくれという懇願にも似た手紙だ。

 二通三通の内は笑っていられたが、手紙が五通を超えたあたりで笑みは引き攣り、十通を超えると今度は自分がおかしくなったことを疑わざるを得なかった。


 窓の外からは大市の賑やかな喧騒が聞こえてくる。

 通りにはこの機を逃すまいと露店が犇めき合い、子供たちだけでなく大人も買い食いの悪徳に身を染めて、生業の疲れを癒し、一年の労働と収穫を労っていた。


 去年の大市も大した騒ぎだったと聞くが、今年ほどではないだろう。

 貴族の馬車が車輛を連ねて古都の大市へ押しかけるというのは、少し前には考えられなかったことだ。北方三領邦との緊張が解けたのは、本当に喜ばしい。

 市参事会は嬉しい悲鳴だという。


 今年はそれに加え、晩餐会のために古都を訪れた商人たちがこぞって滞在の予定を伸ばしたこともあって、宿という宿は全て満員御礼。

 一般の民家に貴族が一夜の宿を求めるという不思議なことさえ起っているのだという。


 それでも間に合わないと判断した古都衛兵隊では、中隊長の号令一下、古都の城壁外に野営用の天幕を展開した。

 貴族はともかく、そのお連れだけでも外で寝てもらおうという計らいだったのだが、戦場から戦場に渡り歩いた古参の貴族などは却って天幕が懐かしいと、城壁外に夜露を避ける始末である。

 あの戦場以来、などとちょっとした同窓会の様相も呈しているということで、目敏い商人たちはそういう場へ酒や肴を運んで荒稼ぎをしていた。


 本来ならマルコもその企みに加わりたい。

 店を買うために資金の大部分を吐き出した今の状況では、小銭を元手に儲けることのできる騒ぎは大歓迎なのだ。


 しかし、どうしたものか。

 目の前に積み上げられた手紙の山から、マルコは目が離せない。開封してみたが、どれも驚くべき金額での購入を打診してきていた。


 どれを選ぶにしても、とんでもない金額がマルコの懐に転がり込むことになる。

 ここは決断を焦るべきではない。ここは落ち着くために、一杯飲もう。

 そう考えると、足は自然と例の店へ向かっていた。




「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」


 大盛況の居酒屋ノブだが、少し前に客がちょうど一人立ったらしく、上手い具合にカウンターへ滑り込むことができた。

 満席の店内はいつものノブと打って変わって註文と客の歓談が喧しいほどだが、こういう雰囲気もマルコは嫌いではない。


 大市の期間はどうしても混んでいて、というシノブの詫びの言葉と共にオシボリを受け取りながら、店内を見回す。

 落ち着いた服装をしている客が多いが、明らかに市民ではないことが窺える客が少なくない。


 まるで仮装でも楽しむように市井の民に身をやつしているが、貴族や豪商がラガーで喉を潤しているようだ。

 後ろの席で「陛下」という呼び声が聞こえた。いや、勘違いに違いない。マルコは鋼の精神で振り返りたいという気持ちを抑え込む。どうせ見てもご尊顔を見知っているわけではなかった。


 さすが、今年の大市は盛況だ。

〈四翼の獅子〉亭や〈飛ぶ車輪〉亭に人が溢れているから、居酒屋ノブにも貴顕が訪れているのだろう。中々見る目があるな、とマルコは我がことのように嬉しくなった。


 オトーシとして出されたギンナンを摘まむ。

 固い殻の中にある美しい翡翠色の実に少しだけ塩を付けて口へ放り込むと、ほろ甘苦い味わいが口の中に広がった。


「なにやら難しい顔をしているね」


 声を掛けてきたのは、隣の席に座る身なりのよい眼鏡の老紳士だ。

 言葉に帝国西方の訛りがある。どこかの大商人だろうが、社交界とは縁のないマルコにはどこの誰だか見当も付かない。

 隣に座るエトヴィン助祭とは親交がある様子だから、その伝手でノブへ来たのだろう。


 ああいえ、実は……と躊躇いながら取り出したのは、先日手に入れた物件の権利書だ。盗まれるわけにはいかないから、いつも肌身離さず懐に入れている。


「ふむ、物件か」


 どれ拝見、と断る間もなく老商人はマルコの手から権利書を受け取った。あまりに自然な手つきに、ぷんとインクの匂いが香る。勤勉な商人に特有の匂いだ。


「ははあ、なるほど。この物件を売りたいが、どこへ売ればいいのか、という悩みか」


 ここ数日相場が上がっているから、よほど下手を打たない限り……と言いかけて、老商人が契約書の一文に目を留めた。


「ロンバウト、ロンバウト、少し聞きたいんだが」

「はいはい、なんですか父上」


 後ろの席でどこかの貴族に商談をしていたらしい細面の商人がひょいと身を乗り出す。

 ロンバウト・ビッセリンク。

 当然、マルコも知っている大商人だ。その父親ということは、この老商人は、まさか。


「この一文、購入した建物は一年と一日の間は転売不可能、というのはどういうことかな」


 ああ、それは、とロンバウトが説明をはじめた。

 曰くそれは古都に対して昔の皇帝が下した勅令が元なのだという。


 古都は、帝国直轄の都市だ。

 他の多くの都市と違い、都市を統治する領主としての貴族はいない。

 主人の元を逃げ出した農民も、古都に一年と一日暮らせば、古都の住民となることができる。


 ところがそれを快く思わない者もいた。彼らは古都へ越してきた農民や貴族の従僕を追い立てるように、彼らの住むところを奪い取ろうと画策したのだ。

 時の皇帝はこのことを悲しみ、法で救済を試みた。転売禁止の勅令は、古都の民になろうとした者から物件を取り上げることを禁じた、温情の法なのだ。


「と、いうことだそうだ。若き商人よ。お前さんのところに届いている手紙には色よい返事はできそうにないようだな」


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