【閑話】火噴き山と〈神の舌〉(前篇)
山が、哭いている。
轟々と地鳴りを響かせながら、山が、火を噴いていた。
山頂近くから沸き出でる黒雲は蒼天を多い、劫火の如き溶岩は幾筋も分かれて麓の林と畑とを舐めるように灼き尽くしている。
雷鳴が轟き、噴石が家々の屋根を砕いた。
逃げ遅れた鴉の群れが、一刻も早く神の怒りから遠ざかろうと耳障りな声を上げて上空を飛び去るのが見える。
空は、昏い。
舞い上げられた膨大な量の粉塵が、神の愛もろともに天の光を覆い隠しているかのようだ。
地獄、とはこういう景色をいうのだろうか。
眼前の光景を少しも見逃すまいと、若き僧侶は目を見開いた。
火山から十分に距離を取った丘の上に、僧侶たちはいる。
僧侶だけではない。あの火噴き山に今まさに焼かれつつあるビッセ村の民、家畜の全て、そして家財の多くがこの丘の上に避難し遂せていた。
奇蹟、と言ってもいいだろう。
朝には何の兆候もなかった山が、今では神の怒りを顕すかの如くに炎と礫岩とを天に噴き上げ続けている。
全員が無事に避難できたのは、僥倖としか言いようがない。
また大きな揺れ。
僧侶の視線の先で、山の一部が緩やかに崩れる。
確かあの辺りには炭焼きの老人が冬を越す小さな小屋があったはずだ。
焼いた玉子の黄身を匙の背で潰すように、見慣れた山は、日常は、壊れ続けていく。
「エトヴィン」
僧侶の肩に、誰かが手を掛けた。
振り返らなくても分かる。この大きくてインクの匂いのする掌は、ウィンクルだ。
ウィレム・ウィンクル。
聖王国から東王国を経て、帝国西部へと到る巨大な商会を建てようという野望を持つ、売り出し中の商人だ。
彼の構想ではルティエの村は交易の重要な結節点となるはずだった。
「ウィレム、商品は?」
肩を竦め、ウィレムは両手を天に掲げて見せる。
お手上げということだろう。
「ぜーんぶ燃えた。商品だけじゃないぞ。家系図から何から、ぜーんぶだ」
家系図、と聞いてエトヴィンの胸は少し痛んだ。
ウィレム・ウィンクルの所蔵する家系図は、これまでにエトヴィンの見たものの中で、最も不思議な部類に属する。
リップヴァーンという家祖の木こりがどこから来たのか、見当さえつかなかった。
精査して研究したいと思っていたのだが、どうやら夢と消えたようだ。
形あるものはいずれ砂に還る。遅いか早いかの違いしかない。
「ただまぁ、従業員が全員無事だったからな。それだけでも御の字だ」
豪快に笑うウィレムの後ろには、彼の雇っている従業員たちの姿があった。
従業員と言えば聞こえはいいが、元は単なる浮浪児やみなしごだ。ウィレムが拾い、仕事や読み書きを教え、今では帳簿を付けるものまでいるという。
「一から出直しだな」
エトヴィンが苦笑すると、ウィレムが鼻をこすった。
「そう、それよ」
聞けば、ウィレムの商会はこれまでに随分と恨みを買っているのだという。
阿漕なことをしたからではない。正当な取引をすることで、商売敵の不正な商売を叩き潰したことで不評を買っているのだという。
さもありなん、と思いながらもエトヴィンはウィレム・ウィンクルの言葉を全て信じているわけではなかった。
清濁併せ呑む器の大きさを持つ男だから、後ろ暗いことにも手を染めているだろう。ただ、それを敢えて指摘してやるほど、エトヴィンも野暮ではない。
「そこで、だ。ここでウィレム・ウィンクルは死のうと思う」
「ほう」
面白いことを言う。
確かにこの噴火なら、人の一人二人死んでも不思議ではない。
全員が助かったことが、奇蹟なのだ。
「死んで、何とする?」
顎を撫でながら、ウィレムは人好きのする笑みを浮かべた。この笑顔に絆される人間は少なくない。エトヴィンも、その中の一人だ。
「ウィレムという名は親父殿の遺してくれた数少ないものの一つだから、これはそのまま残そうと思うのだ。問題は、ウィンクルの方だな」
言われて、エトヴィンは頷いた。
ウィンクル姓の人間を、エトヴィンは他に聞いたことがない。
悪評や恨みを逃れるために死んでみせるというのなら、確かにウィンクルの名は捨てた方がいいだろう。先祖の木こりには申し訳ないが、これもウィレムと従業員のためだ。
「この村の名前をな、残そうと思うのよ」
いいと思うよ、とエトヴィンは答えた。
助祭として赴任して数年。
いい思い出も、悪い思い出もある。
誰かの名前の中にでも、村の名前が残るのは、悪くない思い付きだ。
「ビッセウィンクル、では座りが悪いな……どうしたもんだろう」
「ビッセリンク、ではどうかな」
二人の後ろから声を掛けてきたのは、街の酒場に勤める料理人だった。
名を、リュービクという。
帝国には有名なリュービクという料理人の伝説があるが、きっとそこに肖ったのだろうとエトヴィンは睨んでいる。
生真面目な、それでいて気のいい男だ。
エトヴィンは彼も含めた村人に読み書きを教えているが、彼は生徒の中でも筋がいい。
博覧強記、というべきなのだろうか。
目にしたこと、耳にしたこと、全てを書き留めようとするから、給料のほとんどを羊皮紙の支払いに充てているという専らの噂だった。
旅をしながら料理修行をしているという触れ込みだったが、ビッセの村にはもう随分と長いこと居ついている。
「ビッセリンク、ビッセリンクか」
二度三度、舌頭に転がしてみてから、いい名前だなとウィレムが頷いた。
ウィレム・ビッセリンク。
今ここに、新しい人間が誕生したことになる。
ごく自然に、エトヴィンは陽と双月の神に祈りを捧げていた。
「しかし、名付け親に対するお礼の品がないな」
ウィレムの呟きに、リュービクはかぶりを振る。
「お礼だなんて。ちょっと話が聞こえたから、口を突っ込んだだけですよ」
「いいや、こういうことはしっかりとしておかないと後が怖いんだ。商売というのは博打の最たるものだからな。縁起を大事にしない奴は大成できない」
とは言え、とウィレムとエトヴィンは辺りを見回した。
エトヴィンが避難を呼びかけたお陰で、ビッセ村の人間は老人から赤子、鶏の一羽に至るまで全てがこの丘の上に避難している。
老婆がエトヴィンを見て感謝の祈りを捧げているのも、故無き事ではない。
「そう言えばエトヴィンはどうやって噴火を予言したんだ?」
ウィレム・ビッセリンクに尋ねられ、エトヴィンは前髪の端を人差し指でくるりと弄んだ。
「味がね、変わったんだ」
「味?」
二人に問い質されると、答えないわけにはいかない。
エトヴィンが異変に気が付いたのは、井戸の水の味が変わったからだった。
普段なら澄んだ味の水に、どうにも雑味を感じたのだ。
少し前に読んだ本に、火山が噴火する前には井戸水の味が変わる、とあったのを思い出したのは本当に偶然だった。
「助祭のお陰で助かりました。逃げて何もなければ笑い話、何かあったら幸運じゃないかとみんなを説得してくれたお陰ですよ」
リュービクにそう言われると、自分でも不思議な気がしてくる。
どうして自分は自信をもって避難させることができたのだろうか。あの時は、絶対にそうするべきだという不思議な確信がエトヴィンを突き動かしていた。
「味ねぇ」
後ろ頭をバリバリと掻きながら、ウィレムがエトヴィンとリュービクの二人を見較べるようにして眺める。
「なぁエトヴィン。その話、売ってくれないか」
「売る?」
何を言いはじめたのだろうと思ったが、エトヴィンにはすぐにウィレムの考えていることが分かった。視線の先には、リュービクがいる。
「分かった。売ろう」
よし、とウィレムはリュービクの肩を叩いた。
「おめでとう、リュービク。お前は今日から、凄い舌の持ち主だ。何と言ったって、火山の噴火をその舌で予知してみせたんだからな」
事態を飲み込めないリュービクは酷く困惑した様子で周囲を見回したが、助けてくれる者は誰もいない。
「〈神の舌〉、そう〈神の舌〉なんてのはどうだ。料理人としては随分と箔が付きそうじゃないか」




