親方喧嘩(後篇)
「私がどこで酒を飲もうが、私の勝手だ、ローレンツ」
「その言葉をそっくりそのままお返しするぜ、ホルガーさんよ」
一触即発の空気にシノブはオトーシを出すのも忘れ、タイショーもタイショーで炙っているシシャモを焦がすという普段なら絶対にしないような失敗をしている。
ここは自分がしっかりしないといけない。
エーファはそう決心すると、タイショーが器に盛っていたローレンツの分のオトーシをお盆に載せてカウンターの外に出た。
「いらっしゃいませ。本日のオトーシのエダマメです」
精一杯大きな声で言ったつもりだったが聞こえなかったのか、二人はまだ睨み合っている。
エーファの目からすると、二人は巨人か何かのように見えた。それでも、怯むわけにはいかない。今度はお腹に力を入れ、さっきよりも大きな声で。
「オトーシのエダマメです!」
これには二人もやっと気が付いた。
ローレンツはばつが悪そうに皿とオシボリを受け取る。ホルガーの手と同じ、大きいが優しそうな手だ。
「ほれみろホルガー、お前のせいでこんな可愛らしいお嬢さんに怒られちまったじゃねぇか」
「煩いぞ、ローレンツ。こちらのお嬢さんの名前はエーファというんだ。ガラスのこと以外何にも入っていない頭に刻み込んでおけ」
また言い合いを始めた二人の間からさっさとカウンターの中に逃げ込むと、タイショーがさっき焦がしてしまったシシャモをエーファに差し出した。
「ありがとな、エーファ。シシャモ、食べるか」
力いっぱい頷くと、エーファはまだ温かいシシャモを受け取った。
タイショーはシノブを心配させるのが嫌で黙っていたが、本当は朝から何も食べていないのだ。
カウンターの中にしゃがみ込み、貰ったシシャモを取り出す。
頭からは可哀想なので、齧るのは尻尾からだ。
焦げた皮に少し苦味があるが、中の身はふんわりと柔らかで口の中に坂の旨味が広がっていく。塩でしか味を付けていないはずなのに、どうしてこんなに美味しいのだろう。
「――美味しぃ」
そして、卵。
ぷちぷちとした食感が最初に来て、身とはまた違った味わいが舌の上に踊る。お腹が空いていたのもあって、エーファは貰った二匹をぺろりと食べてしまった。シシャモなら、十匹でも二十匹でも食べられる気がする。
食べ終わって人心地つくと、エーファは妙に静かなことに気が付いた。
見上げてみるとカウンターの客たちが中を覗き込んでいる。
エーファは急に恥ずかしくなって俯くと、さっと立ち上がり、何事もなかったように皿洗いに戻った。
シシャモを食べるエーファの姿に一瞬和んだカウンター席だったが、再び過熱を始める。
「このグラスを見ろ、ローレンツ。お前もお前の自慢の長男もこんなグラスは作れないだろう?」
「それを言うならホルガー、お前さんもタイショーが烏賊を捌いてる包丁を見てみろってんだ。あんな包丁、お前もお前の親父さんも打ったことは無いだろうが」
言い争いの種は尽きないらしい。居酒屋ノブの器や道具、内装にまで話の種は広がり、お互いの技量でどこまで再現できるかという話になっている。
酒を飲みながらも強い語調で言い争う二人にシノブは完全に調子を崩されていて、時折入る肴の注文を取るにもおっかなびっくりといった様子だ。
その上、出てきた肴にも、
「ローレンツの頼んだホッケよりも私の頼んだ鮎の塩焼きの方が大人の味覚を満足させる力を持っている」だの、
「お前さんの頼んだコロッケよりもオレの頼んだ厚切りベーコンの方が圧倒的に美味い」
などと言い始めるのだから始末が悪い。そうかと思えばお互いの肴を交換してみて、品評を始めたりもする。
タイショーは手が出ない限りは無視することに決めたらしい。われ関せずという顔をして、間違って仕入れすぎた烏賊の下拵えに精を出している。
だが、エーファには段々二人の呼吸が飲み込めてきた。
「エーファちゃん、さっきはオトーシありがとね」
カウンターの中に避難してきたシノブがぺろりと舌を出す。
年齢は少し上のシノブが時折見せるこういう子供っぽさが、エーファは嫌いではない。
「いいんです。私もいつかお給仕の仕事も憶えたいですし」
「それは助かるなぁ。そしたら私は料理の勉強でもしちゃおうかな」
水を飲みながらそんな冗談を言うシノブがふと、姉のように思える。
エーファには弟妹はたくさんいるが、姉はいない。年の離れた兄はとっくに独立しているから、家の中にいる子供たちの中ではエーファが一番年上だ。
父親の稼ぎはあまりよくないので薪が買えず、ノブから蛇口を盗もうとしたこともあったが、今はそんなことは全く考えていない。
仕事を覚えてちゃんと働きお給料を貰って、弟妹を食べさせる。それが今のエーファの目標だ。
そんなエーファだから、分かることもある。
「ねぇ、エーファちゃん。あのお客さんたちが本当に喧嘩をはじめちゃったらどうしよう?」
心配そうに呟くシノブに、エーファは優しく微笑みかけた。
「大丈夫ですよ、アレは二人とも楽しんでやってるだけですから」
「えっ?」
あれは弟たちがじゃれ合っているのと同じなのだ。
口喧嘩にも間合いという物がある。お互いにその距離が掴めているから、こうやっていつまでも言いあいができるのだ。そうでなければとっくの昔にどちらかの手が出ているか、席を立って帰っているに違いない。
結局のところ、カウンターの二人の職人は図体が大きいだけで中身は少年と変わりがないということだ。
意味が分からず考え込んでいるシノブは放っておいて、エーファは賄いに作っておいて貰ったヤキソバの皿を取り出した。今日のヤキソバは特別製で、上にふんわりとしたオムレツまで乗っている。
ノブで働いていて一番嬉しいのは、美味しい賄いが食べられることだ。
ここで賄いが食べられるから、エーファは我慢して家ではほとんど何も食べない。その分、弟妹達の食事が少しずつ増えるのだ。
スプーンとフォークを構えてヤキソバと向き合う。
まだ食べてもいないのに、口の中にはとろりとしたクリーミィな卵の味と、ヤキソバのしっかりしたソースの味のハーモニーが奏でられているようだ。
唾を飲む喉がゴクリと鳴る。
朝から食べたのはさっきのシシャモが二本だけ。お腹の中は完全に空っぽだ。綺麗に焼き上げられたオムレツにスプーンを付ける。
その瞬間、弟妹達の顔が目の前に浮かんだ。
「すいません、シノブさん」
「どうしたのエーファちゃん? 賄い、食べていいのよ?」
「実は今日、あんまり食欲がなくて…… 折角作って貰ったんですけど、これ、家に持って帰っても良いですか?」
弟妹達は毎日、こんなに美味しいものとは無縁の生活をしている。
一度だけ、家族でこの店に来たことがある。まさかその時はこの店で働くことになるとは思わなかった。お陰で自分は賄いを食べることができるようになったが、弟妹達が食べるのは柔らかくないパンとスープだけだ。
この料理を、持って帰ってやりたい。
カウンターの二人の口喧嘩を見て、エーファは心からそう思ったのだ。
だめですか、と尋ねようとするエーファを、シノブが笑顔で遮る。
「エーファちゃんは心配しなくていいよ」
「どういうことですか?」
「弟さんと妹さんに食べさせたいんでしょ?」
エーファは自分の頬が真っ赤に染まるのを抑えることができない。
小さな嘘を見抜かれるのがこんなに恥ずかしいとは思わなかった。
シノブがタイショーに何か耳打ちをすると、タイショーもエーファに頷きかける。
「そのオムソバはエーファちゃんが食べたらいいよ。お土産用には冷めても美味しく食べられるものを俺が新しく作るからさ」
「は、はい! ありがとうございます!」
思わず大きな声で返事をしてしまった恥ずかしさをごまかすように、エーファは大きくお辞儀をする。この店で働けて良かった、という気持ちが胸の中でじんわりと広がっていく。
気を取り直して、スプーンとフォークを構え直す。
ただでさえ美味しいヤキソバに、オムレツが載っているのだ。一間タイプの違う二つの料理だが、この組み合わせが極上の味わいになることをエーファは確信していた。
出会いへの予感を秘めたスプーンがオムレツに触れようとした正にその瞬間、カウンターから声が掛かる。
「……すまないがシノブちゃん。私にもエーファちゃんのと同じ物をお願いできるかな?」
「おいおい、抜け駆けはよくないぞホルガー…… オレにも同じものを」
またあの二人だ。
今度はこのオムソバを注文するとかしないとかそんなことで喧嘩を始めたようだ。スプーンを握るエーファの手に、力が入る。
「作るのは私の分を先にしてくださいよ。ローレンツより先に頼んだんですからね」
「何言ってるんだホルガー、そんなことは関係ないだろ」
エーファの頭の中で、ブチリと何かが切れる音がした。
「あなたたち! ご飯はお行儀よく食べなさい!」
怒鳴りつけたのは自分の子供よりもまだ幼い子供だというのに、ホルガーとローレンツは思わず背筋を伸ばす。
「は、はい!」
「お、おう!」
思わず返事をしてしまってから、気まずさに二人は小さくなってしまった。
まるで小さな子供が兄弟喧嘩を母親に見咎められたような格好だ。
二人の姿を見て、ふんと小さく鼻を鳴らすと、居酒屋ノブの小さなお姉さんは本日の賄いに漸く手を付けたのだった。




