秋の海鮮親子丼(前篇)
やってしまった、かもしれない。
秋風のように寂しくなった懐を抑えながら、マルコは古都の路地をとぼとぼと歩く。
つい今しがた大きな取引を終えたばかりのマルコの胸に去来しているのは秋の空にも似て、やり遂げたという達成感と、これでよかったのかという不安の綯交ぜになった複雑な感情だった。
その日暮らしの遍歴商人からは足を洗い、地に足付けた商売をはじめようと大きな決断をしてはみたものの、やはり早まったという思いが強い。
店を、買った。
買ったとは言ってもこれまでの蓄財をほとんど吐き出し、それ以外にもあちこちから金をかき集めての話だが、それでも名義はマルコのものだ。
はっきり言って、それほどよい物件ではない。
二階建ての上物に半地下室の付いた、こぢんまりとした店舗兼倉庫兼住居。
一国一城の主と言えば聞こえはいいが、これで支払いを終えるまでは大博打は打てなくなった。
これまでの人生で一番大きな買い物だ。
運河に近いから湿気もあるし、理想的な店とは言い難い。
だからこそ、今のマルコでも背伸びすれば手の届く価格で売りに出ていたのだということは分かっている。
売主はバッケスホーフ商会に連なる小商会の主で、在所は帝都だ。
縁遠くなった古都の塩漬け物件は早々に処分して、生きた現金に替えたかったのだろう。
その気持ちはマルコにもよく分かる。
鳴り物入りでビッセリンク商会が古都へやっては来たものの、それほど目立った動きは今のところ見られない。
市参事会といくつかの商会やギルドが人手を集めて運河の浚渫をしているが、果たしてそれが何の役に立つのか。古都の事情通にも首を傾げている人間は多いようだ。
陽は西へ傾き、家路を急ぐ人々が路地を行き交いはじめる。
だが、マルコは古都に賭けた。
今回購入した物件も、自分の本拠地とするというよりは、将来の転売用にしたいという目論見がある。値上がりしてくれなければ少々厳しいことになるが、それも運だ。
運命を恨んでいるようでは、商売人などできはしない。
金を払った以上は、稼がねばならぬ。
とは言え、腹が減っては戦はできない。さて何を食べようかと頭を巡らしたところで、例の店を思い出した。
そうだ、ノブだ。
こういう日には、あの店で一杯ひっかけるのが良いに違いない。
〈馬丁宿〉通りへ入り、見慣れた道を歩いていると、顔見知りに出くわした。
イグナーツと、カミル。
兄弟だったか義兄弟だったかは忘れたが、とにかく仲のいい二人組だ。
古都に古くからあるアイゼンシュミット商会という老舗で最近売り出し中の若手で、穀物の扱いではマルコも何度かお世話になったことがある。
「や、お二人さん。今日は飲みにでも来たのかい?」
気さくに声をかけてみると、イグナーツとカミルの方でもマルコのことに気が付いた。
「ああ、マルコさん。奇遇ですね」
如才なく挨拶を返して来たのは、兄だったか義兄だったかのイグナーツの方だ。
聞いてみれば冬にヨルステン麦の買い付けに行く作戦会議という名目で夜な夜な飲み歩いているのだという。
北への買い付けなら遍歴商人としての経験から相談に乗れることもあるだろうと、マルコも一杯ご相伴することになった。
「で、店は決めてるのかい?」
「ええ、それはもう。でも、マルコさんの行きたい店があるなら、そこでもいいですよ」
イグナーツにそう言われて我を通しては先輩として恰好が悪い。
居酒屋ノブはまた明日ということにして、今日は二人の顔を立てることにした。
それじゃあ、アイゼンシュミット商会の誇る若き俊英二人の目利きを信じてついていきましょうかねと冗談めかすと、イグナーツとカミルは揃って照れた表情を浮かべる。
三人連れ立ってぶらぶら歩いていると、通りの見知った一角の辺りでイグナーツとカミルが足を止めた。
「あれ?」
マルコが驚いたのは、そこが居酒屋ノブの目の前だったからだ。
「二人の目当ての店っていうのは?」
「ひょっとしてマルコさんもご存知でしたか?」
ご存知も何も、今日行こうとしていたのがこの店だよ、というと、イグナーツとカミルはまたも揃って照れ笑いを浮かべる。
自分たちの目利きが間違っていなかった、ということがよほど嬉しかったらしい。
さて入ろうか、というところでマルコは妙な張り紙に気が付いた。
「なんだこりゃ」
なになにと三人で張り紙の文字を読む。
「えー、本日は休業いたします。せっかくお越しのお客様にはご迷惑をおかけして申し訳ございません。またのお越しをお待ちしております……」
なんということだ。
今日はもう、ノブで一杯ひっかけるという気分になっていたというのに。
イグナーツとカミルは、と見てみると、二人も言葉にし難いほどの落ち込みようだ。
特にカミルの方は、このまま地面の底へ沈み込んでしまうのではないかというほどに落ち込んでいる。
諦めて帰るか、それとも別の店を探すか。
いずれにしても早めに決断した方がいいだろうと思ったところで、マルコはふと気が付いた。
店の中に、誰かいる。
ひょっとすると休業ではなく、貸し切り営業なのだろうか。
引き留めるイグナーツとカミルの二人を押し切るように、音を立てずに硝子の引き戸を少しだけそうっと開ける。
そこで、マルコは仄暗い喜びに彩られた、秘密の儀式を目撃してしまった。




