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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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無味の味(後篇)

「え、〈四翼の獅子〉亭って、あの?」


 今度はしのぶの驚く番だった。

 居酒屋のぶの裏口が古都へ繋がってもう随分になる。

 はじめは店のことで掛かり切りだったしのぶも、客の会話から次第に街の様子は朧気ながらつかめるようになってきていた。


 中でも気になっていたのは、のぶ以外の料理店の評判だ。

 あっちの店の料理はのぶよりも味が濃いだとか、こっちの店で出たあの料理が美味しかっただとか、そういう話にはついつい耳を傾けてしまう。

 信之が古都の人々に受け容れてもらえる料理を目指すのなら、そこに手掛かりが隠されていると思ったからだ。


 しのぶの聞く限り、客の口の端に上る店でも、〈四翼の獅子〉亭の名前には、常に一定の敬意と誇りが込められていた。

 歴史のある店なのだろう。

 いつかは〈四翼の獅子〉亭で腹いっぱい食いたい、という客の声は少なくない。


 最近は少し調子を落としているようだが、飲食店には色々とあるものだ。

 仕入れが変わったり、井戸の不調だったり、厨房の料理人が一人入れ替わったりするだけで客は鋭敏にその変化を舌先でとらえることがある。


 店がしっかりしていさえすれば、些細な変化は誤差に留まるものだ。

 問題を乗り越えて、味が更に洗練されることもある。そうやって店の味は年輪を重ねていくものだとしのぶは思っていた。


 しかし、その総料理長が、味覚を失っているというのなら、少し話は違ってくる。

 料理人の舌は、店の核だ。

 何かがずれはじめていることを察知するのは、料理人の舌でなければならない。


 しのぶの祖父は料理人たちの舌にはとても気を使っていた。

 弟子入りした者たちにはまず美味いものを食べさせて、舌に覚え込ませる。

 料理人としての軸を舌に宿らせるためには、美味いものを食べる必要がある、というのは祖父の持論だった。

 味覚がぶれていると思った料理人にはまとまった休みを取らせ、小遣いをやって美味いものを食ってくるようにと旅行へ出させたこともある。


 先程の老人の静かな気迫を、しのぶは思い返した。

 舌の上手く働かない状態で、料理を吟味する。

 目と、鼻、それに食器を通じた触感。

 歯触りと、舌触り。喉越しや温度。

 あるいは、咀嚼した時の音も判断材料に加えていたかもしれない。


 いったいどれほどの難事なのだろうか。

 その困難さを、しのぶは想像することさえできない。味覚の薄れた舌では、信之が今日出した品々を食べるだけでも大変な労力の要る作業だっただろう。


 また、雨の音が一段と強くなった。


 何か言おうとして、しのぶは口を噤んだ。

 信之は既に翌日の昼の仕込みをはじめている。

 だが、その表情は、険しい。引き締めた口元からは、強い感情が窺える。


 古都らしい料理ではない。

 老人の一言は、信之の心にどう響いたのだろうか。

 店を訪れる古都の住人のために味を追求してきた信之だからこそ、あの言葉には感じるものがあったのかもしれない。

 横で手伝うハンスも、ただただ無言で手を動かすことしかできないようだ。


 テーブルを拭きながら、しのぶは考える。

 あの老人は、何のために居酒屋のぶを訪れたのだろうか。

 そして、次にあの老人が店を訪れた時、どうやってもてなすのが正しいのだろうか。

 見上げた先の神棚は、何も答えてはくれない。














 雨音を肴に酒盃を舐める老人が、二人。

 蝋燭の灯火も仄暗い〈四翼の獅子〉亭の一室を、沈黙が満たしている。

 豪奢な部屋だ。

 古都で一番の名を(ほしいまま)にするこの宿でも、最も上等に設えられた部屋は本来であれば、皇帝や諸侯といった貴顕が投宿するためのものである。


 分厚い黒樫の扉が控えめに敲かれ、開かれた。

 入ってきたのは、この宿の総料理長、大リュービクである。


「やあ、リュービク。いい店だったじゃろう」


 気軽に声をかけるのは、助祭のエトヴィンだ。片手の酒盃が寂しくなったのか、独酌で高価な林檎酒を注いでいる。


「いい店でしたよ。あれだけ腕のいい料理人なら、息子の代わりにここを継がせてもいいくらいだ」

「これはまた随分と気に入ったもんじゃないか」


 軽口でもう一人の老人が応じた。

 恰幅のいい老人はこの部屋を借りている商人だ。日がな一日この部屋に閉じこもり、女中たち相手に九柱戯(リップヴァーン)で暇を潰してる隠居老人ということになっている。


「それでどうするんじゃ、リュービク」


 旧知の気軽さで尋ねるエトヴィンに、大リュービクは顎を撫でながら思案顔になった。


「そこが問題です。経験で言えば今日の……ノブ・タイショーでしたか? 彼の方は大したものだ。あれだけの修練、なかなか積めるものではない。よほどの師と職場に恵まれたのでしょう。才能に慢心して胡坐を掻いていたうちの小倅に鼻水を炙って飲ませてやりたいくらいです。しかし……」

「しかし?」


 先を促すエトヴィンに、大リュービクはもう一人の老人の方を見遣った。


「ご老公のご要望は、“古都らしい料理”ということでしたから」


 ご老公と呼ばれた老人は肉のたっぷりついた首を竦め、中指で眼鏡のブリッジを押し上げる。


「なるほど。リュービクらしい言い訳だ。本当は息子に大役を任せたいのに、そうは言い出せないから責任を儂に押し付けようという魂胆だな」

「そうは言っていませんよ。ただ、事前の条件を考えると、うちの小倅の方が適任だろう、という程度のことです。両者の実力はほとんど変わらないと言って差し支えありませんから、後はご老公の判断に委ねます」


 ふぉっふぉっと老公は愉快そうに腹の肉を揺らした。


「分かった分かった。そういうことにしておくよ。ここでリュービクの無言の頼みを断ってノブ・タイショーを選んでしまったら、後々まで恨まれそうだからな」

「恨むだなんて滅相もない。ただ、せっかくの秋の味覚がご老公の食卓に並ぶ量が少しばかり減るだけのことですよ」


 頼みの次は脅迫か、と冗談めかして呟きながら、老公は手にした酒盃を干す。


「まぁいい。結果ははじめから決まっていたようなものだ。公正を期すためにエトヴィン助祭のお勧めの料理人も吟味してもらった、というところだ。当初の予定通り、リュービクの息子に例の件は任せるとしよう」


 楽し気な老公に対し、エトヴィンは少し不満気だ。


「老公の決めたことじゃ。儂もそれでも異存はない。だが、肝心の息子さんは大丈夫なのか?」


 問われて、大リュービクは少し押し黙る。


「……大丈夫、だと思いますよ。あれは妻に似て、本当は強い子だ。きっと立ち直ってくれる」


 老公が三つの酒盃に林檎酒を注ぎ、エトヴィンと大リュービクに手渡した。


「まぁ何はともあれ、話はまとまった。まずは乾杯と行こうじゃないか」


 部屋に、乾杯(プロージット)の声と、酒盃の打ち合わされる涼し気な音が響く。


「それでリュービク、今日は何を食べてきたんじゃ」

「エトヴィンさんの言う通り、シュニッツェルは出てきましたよ。面白かったのは、最後に出てきた玉子の蒸し料理でしたね」

「ほほう、チャワンムシか。あれは美味いからの」

「いえ、そういう名前ではありませんでしたね。確か……タマゴドーフ、でしたか」

「む、それは儂も食べたことのない奴じゃな……どうしよう。こちらから頼むとリュービクとの繋がりを疑われるし……うぅむ」


 二人の居酒屋談義を眺めながら、老公が楽し気に酒盃を傾けた。

 こうしてみると、あの頃と何も変わらないように見える。

 ただ、三人とも年を重ねただけだ。


 明日からは忙しくなる。

 子煩悩なリュービクのことは笑えないと、ウィレム・ビッセリンクは肩を竦めるのだった。



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