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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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無味の味(前篇)

「何か、古都らしい料理を出して貰えませんかね」


 老人が居酒屋のぶを訪れたのは秋の風が黒雲を連れてきたある晩のことだった。

 豊かな白髪の細面は、しのぶのはじめて見る顔だ。


 カウンターに腰を下ろし、老人が店内を見回す。

 視線の運びは、試験官が答案を嘗め回すように見るのと同じように執拗だ。


 夕方から降りはじめた空模様は次第に崩れていき、今ではすっかり篠突く雨になっている。

 お陰で今宵のお店は開店休業。最近はほぼ毎日暖簾を潜っていたリューと名乗る料理人も、今日は姿を見せていない。

 エーファとリオンティーヌも帰したから、残っているのはしのぶと信之、それにハンスだけだ。


 渡したタオルでぐっしょりと濡れた髪と衣服を拭い、老人は人心地ついたとばかりに小さく吐息を漏らした。

 いったい、この老人は何者なのだろうか。

 身なりはいい。

 黒づくめの恰好は趣味が分かれるだろうが、しのぶの目から見ても仕立ては上等だ。

 落ち着いた雰囲気の老人だが、鳶色の瞳は驚くほどの空虚さを讃えている。


 闇夜に黒尽くめの陰気な老人が、一人。

 まるで、と考えたところでしのぶは小さく身震いした。

 こんな天気だから、不吉なことを考えてしまっただけだろう。


「お飲み物は如何いたしましょう?」

「そうですね……エールを頂きましょうか」


 註文されるままに生ビールを出すと、老人はジョッキの中身を一息に飲み干した。

 味わう、という風ではない。まるで水でも飲むかのような飲み方だ。


「お嬢さん、済みませんが、同じものか、もう少し酒精の強いものを、もう一杯」


 はい、と応じてしのぶは気が付いた。呼気にはほんのりと酒の匂いが漂っている。既に酒を飲んできているのだろう。

 この老人のことが、しのぶはますます分からなくなった。

 冷たい雨の降り頻る晩に、梯子酒。

 寝酒を引っ掛けるために、わざわざ濡れ鼠になるものだろうか。


「お待たせいたしました。ポテトサラダです」


 古都らしい料理を、と頼まれて信之が出したのは、ポテトサラダだ。

 エーファの実家で獲れた馬鈴薯を使ったポテトサラダは、お通しとしても評判がいい。先日はローストビーフに添えてみたが、グレービーソースとの相性が素晴らしかった。

 馬鈴薯を常食する古都らしいといえばとても古都らしい一皿だ。


「どれ……」


 しのぶの出したハイボールで唇を湿らせ、老人はポテトサラダを口に含んだ。

 一口、二口。

 瞑目し、何かを確かめるようにゆっくりと咀嚼する。


「素晴らしい茹で加減ですね。上に振りかけた粗い胡椒のカリッとした歯ざわりも面白い」


 ありがとうございます、と信之が褒める。

 食べ終わった後の口を拭う所作もごく自然な老人の横顔に、しのぶは誰かの面影を見たが、それが誰かははっきりと思い出せない。


 続いて信之が出したのは、ヒレカツだ。

 ボコボコという低い揚げ音がチリチリチリと高くなると、自然にカツが浮かび上がってくる。

 こんがりとした揚げ色のヒレカツも、古都の住人には人気の逸品だ。


 以前ブランターノ男爵から註文を受けたシュニッツェルという料理と似ているのだという。牛や鹿で作ることの多いというシュニッツェルだが、古都の住人は豚肉もこよなく愛しているので、問題なく受け容れられている。


 一口サイズのカツを頬張り、またも老人は瞑目した。

 しっかりと噛み締める表情から、その内心を窺い知ることはできない。

 ヒレカツを飲み下し、老人は満足げな吐息を漏らす。そして、ハイボール。

 気付けばかなりのペースでグラスの中身は減っている。


「いい揚げ具合ですね。衣のサクリとした食感と、中の豚肉の柔らかさ。これが両立できるというのは、素晴らしいことです」


 褒めながら、またハイボールを一口。グラスに残っていた分を一息に飲み干すと、しのぶにおかわりを促す。

 次に持って行った一杯も、老人はすぐに飲み干してしまった。

 よほど喉が渇いているのだろうか。それとも。


 信之が料理を出し、老人がそれを食べ、簡単な感想を述べる。

 盛り付け、食感、口当たり。

 感想は多岐にわたり、老人が料理全般に広く通暁していることが分かる。


 淡々としたやりとりだが、しのぶから見れば真剣勝負のようだ。

 次の料理、次の次の料理、次の次の次の料理と、ハンスに手伝ってもらいながら信之は料理の支度を手際よく進めていく。


 老人が多くの料理を食べてみたいのだと察してからは、信之は一皿一皿の量を可能な限り少なく盛り付けるようにした。

 焼き料理、揚げ料理、蒸し料理。

 古都の食材を使い、古都の味覚に合わせ、古都の四季を感じさせる料理たち。


 店の外からは雨の音だけが聞こえてくる。

 作る者と食べる者、不思議な一体感が、そこにはあった。

 一通りのメニューを出し終え、ひとときのささやかな宴は、終焉へ向かう。


「お客様、こちらをどうぞ」


 冷蔵庫から信之が取り出したのは、先ほど蒸し上げたたまご豆腐だ。

 どこからどう見ても、古都らしい料理ではない。


「ふむ、これは……?」


 銀の匙でふるりとしたたまご豆腐を掬い、老人が口に含む。


「ああ、なるほど……」


 老人の口元が、はじめて綻んだ。

 満足したようにハイボールを飲み干し、老人が立ち上がる。


「ありがとう、今日はとても楽しいひと時でした」


 懐から金貨を一枚無造作に取り出すと、老人はカウンターに置いた。


「……しかし、古都らしいかどうか、というと、やはり少し違ったように思いますね」


 それだけ言い残すと、老人は硝子戸を開け、雨の降る古都の闇へと消えていく。

 背中を見送り、ふぅと三人に弛緩した空気が流れた。


「そういえばタイショー、どうして最後にタマゴドーフを出したんですか?」


 調理器具と食器を手早く丁寧に片付けながらハンスが尋ねる。

 しのぶは答えるべきかどうか少し逡巡してから、ハンスに向き直った。


「さっきのお客さんは、多分、味を感じなくなってるのよ」


 えっ、とハンスが素っ頓狂な声をあげる。

 食べる様子もそうだったが、老人の感想はいつも食感や食材の彩りのことに偏っていた。

 該博な知識のあることは確かだが、味については一言も触れなかったのも、味覚のことを考えれば却って自然だ。

 信之が最後にたまご豆腐を出したのは、味覚のない相手でも、たまご豆腐の柔らかな食感なら食べやすいと思ったからだろう。



「でも、あのお爺さん、〈四翼の獅子〉亭の総料理長(グランシェフ)の大リュービクさんですよ」


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