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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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ハンスと豆の木(後篇)

「豆? 育ててるの?」


 予想外の言葉に、しのぶが尋ねる。


「ええ、トルカン豆の苗木を……」


 トルカン豆という名前は枝豆をお通しに出した時に、信之もお客の口から聞いたことがあった。

 枝豆よりも少し大ぶりの豆で、古都の子供たちはこの豆を炒ったものをおやつ代わりに(ねぶ)って食べるらしい。

 ハンスに園芸の趣味があるとは知らなかった。


 しかし、それとハンスのこのところの不調はどう関係しているのだろうか。

 先を促すように、信之もしのぶも黙っていることしかできない。

 俯くハンスの、膝の上に置かれた両の拳がぎゅっと握られる。


「ずっと……ずっと、居酒屋ノブの味を守るにはどうすればいいのかを考えていて……」

「……味を、守る?」

「はい。タイショーの味を、居酒屋ノブの味を、守りたいんです。そのためにはどうしても、ダイズが必要で」


 やがて訥々と語りはじめたハンスの言葉は支離滅裂で、順序がばらばらで、それでも熱意の籠ったものだった。

 ハンスが見据えているのは、居酒屋のぶの裏口が使えなくなってしまった後のことだ。

 想像したくないことだが、絶対に訪れない未来だと言い切れる保証はない。

 先日のぶを訪れた依田さんの使っていた扉も、ある日使えなくなってしまったという。この店の扉は例外だと安心できる材料がないのは、確かだ。


 裏口がなくなっても、ハンスが居酒屋のぶの味を守るにはどうするべきか。

 この店で使っている調味料の多くは古都では手に入らないものだ。

 代用できるものもあるが、どうしようもないものもかなりの数に上るというのがハンスの行きついた結論だった。


 特に、味噌と醤油。

 手に入れることがほとんど不可能なものであれば諦めもつくが、原料の大豆さえあれば自作できるかもしれない味噌と醤油は、ハンスの心を悩ませ続けた。

 自分の本文は料理だ、ということは分かっている。


 ただ、ハンスの愛した居酒屋のぶの味を守ろうとすれば、必然的に延長線上には調味料の問題が立ち塞がってしまう。

 その「努力すれば、作れるかもしれない」という気持ちがハンスの中で「作れないのは努力が足りないからだ」へと変わるのに、それほどの時間はかからなかったらしい。

 連合王国で依田さんの作っている醤油はいずれ古都に届けてもらうことになっている。が、どうしても割高になるし、供給も不安定になるだろう。


 なにせ、船で遠路遥々運ばれてくるのだ。

 日本のようにちょっと足りなくなったからスーパーへ買いに行く、という具合にはいかない。

 古都で大豆を栽培し、味噌と醤油を自給したいというのがハンスの考えていることのようだ。


「その為に、トルカン豆でダイズを育てる練習をしているんです」


 再び、店内を沈黙が支配した。

 どこか遠くで、野犬が鳴いている。

 語り終えて項垂れるハンスに、信之は何と言葉を掛けていいのか分からなかった。


 気持ちは痛いほどによく分かる。

 いや、分かるなどと軽々しく行ってはいけないのかもしれない。

 異世界で料理の味を守るという不可能な目標を、ハンスはたった一人ですべて背負い込んで苦しんでいたのだ。


 その表れが豆の栽培であり、日頃の浮かない表情だった。

 豆を使ったお通しが続いたのは、頭が豆のことでいっぱいだったからだという。


 ハンスは、真面目だ。生真面目過ぎる。

 だが、師としての自分はハンスのその真面目さに甘えていたのだということが、今の信之にはよく分かった。

 噛みしめた奥歯が、ぎちりと鳴る。

 いろいろな言葉が胸に去来し、喉まで出かかっては、消えていった。


「んー、なんか、お腹空いたね」


 前掛けをぱんぱんと払い、しのぶが立ち上がる。


「ハンス、悪いんだけど何か作ってくれない?」

「え、あ、はい」


 畳みかけるような有無を言わさぬ気魄に、ハンスが矢のように厨房へと立った。

 ああ、そうだ。しのぶはちゃんと、答えを知っている。

 こういう時には、千の叱責よりも万の労いよりも、身体を動かした方がいい。


「ハンス」

「はい、タイショー」

「豆を、何か豆を使った料理がいいな」


 一瞬の沈黙の後、ハンスがはちきれんばかりの笑顔で、はいと応えた。




 ハンスが豆を調理する音を聞きながら、信之は天井を眺めている。

 頭には、自分の師である塔原の姿が浮かんでいた。


 守破離。


 塔原から教わった言葉だ。

 この言葉は信之にとって、福音として響いた。

 遵奉してきた伝統の殻を破り、巣立つことができる。自分だけの味を追求することができるということは、純粋な喜びだった。


 だが、ひょっとするとこの言葉がハンスを縛っている者の正体かもしれない。

 信之はこの言葉を、折に触れてハンスにも教えてきた。

 それをハンスは、まったく逆の意味に捉えてしまっているのではないだろうか。


 自分の殻を破って巣立つためには、まず伝統と師の教えを忠実に遵奉しなければならない。

 長い修行を修めた信之にとっては解放の言葉として響いた言葉が、ハンスにとっては途轍もなく長く険しい道のりを示す言葉として重く圧し掛かったのではないだろうか。


 ましてやここは、古都。

 前提条件からして、日本での修業とはまったく違う。

 水が違う。気候が違う。文化風土が違えば、客の舌も違う。手に入る素材に至っては言うまでもないことだ。

 信之の伝えた技術を十全に守り通すということさえ難しい。


 それを、ハンスは何とかしようと足掻いていたのだ。

 たった一人で、誰にも相談せずに。


 信之の口元が、自然と綻んだ。

 ハンスは間違いなく、優れた料理人になる。天賦の才によってではなく、努力によって、信之すら到達できない高みに登ることができるだろう。

 そのためにもまず、呪縛を解いてやらなければならない。


「……できました」


 ハンスの声に、信之の意識が引き戻される。

 厨房には卵のいい匂いが漂っていた。


「ハンス、早く見せて」


 待ちきれない様子のしのぶがせがむと、ハンスは慎重に皿をカウンターまで運んでくる。


「……ほぅ」


 緑釉の皿で美味しそうに湯気を立てているのは、円いスパニッシュオムレツだ。

 具は、ほうれん草と玉ねぎ、馬鈴薯、それに大豆を使っている。

 ピザのように食べやすく切り分けて皿に盛られているのも良い。


「シノブさんは昼を軽くしか食べておられなかったので」


 少しボリューミィかとも思ったが、確かに信之も小腹が空いている。これくらいしっかりとした夜食の方がちょうどいいのかもしれない。


「ありがとうね、ハンス。さ、冷めない内に食べましょ」


 しのぶと信之、そしてハンスの三人で、横並びに座っての遅い夕食だ。

 普段は箸を使うしのぶだが、今日はナイフとフォークを取り出した。


 信之もそれに倣い、一切れ皿に取る。食べやすい大きさに切り分けて口に運ぶと、柔らかな食感が口に広がった。

 卵とバターのふんわりとした香りに、馬鈴薯と大豆のほくほくとした味わいが包まれている。

 玉ねぎの甘みとほうれん草の微かな苦みが味を引き締め、全体としてのバランスもいい。


 なるほど、これはしっかりと仕上げてきている。

 中途半端な和食を作ってきたらハンスにひとこと言ってやらねばならないと思っていたが、その心配はない。


 ここに使われている材料は大豆以外、全て古都で手に入るものばかりだ。

 たとえ今日、裏口が日本と通じなくなったとしても作ることができる料理。

 それでいて、味の調和や盛り付け、そして何よりも、食べる者の気持ちを考えたもてなしの心のような信之の伝えたかったことも余さず含まれている。


 二口、三口と食べ進める。

 伝えなければならないと思っていたことは、全て伝わっていたのだ。

 言葉ではなく、背中から。


 食べながらハンスの方を見遣ると、ちょうど目が合う。

 恥ずかしそうに俯くハンスの顔には、怒られるかもしれないという怯えや、こちらの顔色を窺うような卑屈さはどこにもない。

 ただ、自分の作ったものを食べた人がどういう反応を示すのか、それだけが気がかりなのだ。


 信之は、料亭〈ゆきつな〉で自分の作った料理がはじめて客に供された日のことを不意に思い出した。今のハンスのように、客がどんな表情をしているのか気になって気になってしょうがなかったことをよく憶えている。


 取り分けた分を食べ終え、次の一切れを皿に移す。

 珍しくしのぶもふた切れ目に手を伸ばしているところを見ると、お気に召したのだろう。

〈神の舌〉などと板前たちは冗談めかして綽名していたが、実際にしのぶの料理に対する味覚や嗅覚は大したものだ。

 そのしのぶがお代わりをしたのだから、ハンスの料理はまず及第点を越えている。

 学びはじめた時期を考えれば、驚異的な進歩と言っていい。


「ハンス、これ美味しいね」


 しのぶが信之の背中からひょこりと顔を出し、反対隣のハンスに伝える。


「……あ、ありがとうございます」


 ハンスの声が上ずっているのは、以前に信之が言ったことのせいだろう。

 信之は、しのぶに賄いを美味しいと言ってもらえるまでに五年かかった。

 ほんの少しだけ悔しい気もするが、それはそれ、これはこれだ。

 自分の方が塔原よりも弟子に何かを伝えるのが上手いのだ、と思い込むことにする。

 いやそれも、ハンスが優秀で信之の意図しないところまで汲んでくれるからだということは分かっているのだが。


 小腹が満たされると、今度は少し喉が渇いてきた。

 今日はもう営業も終わり。

 明日は都合のいいことに安息日のお休みだった。


「ハンス、何かもう肴を見繕ってくれないかな。今日は、三人で飲もう」

「大将、どうしたの急に?」

「いいじゃないか。たまには飲みたい気分なんだ」


 熱でもあるのかと、しのぶが信之の額に掌を当てる。

 ほんのりと冷たい掌が、妙に心地よい。

 そんなことをしている内に、ハンスはもう厨房に立っていた。


「分かりました。お酒は何にします? アツカンですか? それともレーシュ? トリアエズナマもいいですね」


 何を呑みたいか聞いてから、それに合った肴を決める。

 なかなかいい判断だ。やはりハンスは、信之には過ぎた弟子かもしれない。


「今日はトリアエズナマにしよう。冷蔵庫の奥に、晩酌用の厚切りベーコンがあるから、それを炙ってくれるだけでもいいぞ」

「……あー」


 ベーコン、という言葉にしのぶが素っ頓狂な声を上げた。


「どうしたんですか、シノブさん」

「……しのぶちゃん、まさか」


 問い詰めるような信之の視線に、しのぶが苦笑いをしながら頭の後ろを掻く。


「ああ、いや、ほら、ちょうど大将のいないときにさ、ゲーアノートさんが、ね?」

「……またか」

「でもタイショー。厚切りのベーコン、まだちょっとだけ残っていますよ。これを細かく切って、馬鈴薯と一緒にコショウ味で炒めるというのはどうでしょう」

「ああ、それはいいな。旨そうだ」


 ハンスの作った肴で、ささやかながら日頃の労をねぎらう乾杯をあげた。

 一日の労働で疲れた身体に、心地よい苦みがすっと流れ落ちていく。


「そう言えばさ」


 馬鈴薯を頬張りながら、しのぶがハンスの顔を覗き込む。


「ハンスが育ててるっていうトルカン豆っていう豆は、大豆の代わりにはならないのかな」


 そう言われてみれば、考えたことがなかった。

 形は似ているらしいから、実はこちらの世界の大豆の親戚なのかもしれない。

 ジョッキの中身で口の中をさっぱりさせたハンスの視線が、左上の方を彷徨う。


「んー、どうなんでしょう。今年はまだ植えたばかりですから、収穫はあと三年くらい先になると思うんですけど……」


 三年後?

 確か大豆は一年草のはずだ。


「シノブさんやタイショーは、トルカン豆の木って、見たことありませんか? 春先に黄色い花をつける、背の高い……」

「木、か……」と信之が呟く。

「木、ね……多分、見たことないと思う……」としのぶも苦笑を浮かべた。


 どうやらトルカン豆と大豆は随分と違うものらしい。

 結局は、連合王国からの依田さんの荷物を待つ方が確実だろうという話になった。


 後はもう、呑むだけだ。

 ハンスの作ったジャーマンポテト風の肴は、ビールによく合う。

 ピリリと聞いた胡椒の味とベーコンの脂で馬鈴薯と玉ねぎのの味が引き立てられ、いくらでも酒が進む魔性の味だ。


「ハンス、これは明日から夜の定番の肴に加えよう」

「いいんですか?」

「これだけ美味しいなら当然よね」




 こうして居酒屋のぶに新しいメニューが加わり、ハンスも元通りに元気に働くようになった。

 厨房で包丁を振るいながら、信之は現状に満足している。


 残る懸案は、あと一つだけだ。


「……ねぇ大将。最近、晩酌しなくなったの?」

「いや、そんなことないよ」


 上目遣いに尋ねてくるしのぶに、努めて冷静に、無表情に信之は答えた。

 信之はひとまず胸を撫で下ろす。

 どうやら、晩酌用のつまみの新しい隠し場所はまだしのぶに見つかっていないらしい。

 これでしばらく、肴なしの寂しい晩酌とはおさらばできそうだった。


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