おにぎり(前篇)
まるで冬眠前の熊のようだった。
夜営業の暖簾を掲げる前からやって来たベルトホルトは椅子に座ることもなく、居酒屋のぶの店内を落ち着きなく歩き回っている。
時折、思い出したように悶えるような声を上げたかと思うと、硝子戸を開けて出て行こうとし、思い直して店内に戻るのを繰り返していた。
古都の衛兵隊が誇る<鬼>ことベルトホルトが意味もなくこんなことをしているわけではない。
妻であるヘルミーナが、朝から産気づいたのだ。
産婆の真似事もできるということで薬師のイングリドとその助手カミラが押っ取り刀でベルトホルトの部屋へ手伝いに行ったのだが、そこでも<鬼>はこの調子だったのでついには追い出されてしまったのだ。
いつもならここでリオンティーヌが「なんだい、<鬼>ともあろう者が情けないねぇ」とでもいうところだが、今はここにいない。
どういうわけかエーファがリオンティーヌを早退させるべきだといつになく強く主張したので、帰らせたのだ。本人は無理にでも居残ろうとしたのだが、鬼気迫るエーファに気圧される格好で、部屋に戻っている。
しのぶは特に異常に気が付かなかったが、帰る時に目が少し赤かったので寝不足か何かだったのかもしれない。
「ベルトホルトさん、少し落ち着いて座った方が……」
「ん、ああ、タイショー。そうだな、そうさせてもらおうか」
心配した信之が声を掛けても、ベルトホルトは上の空で答えるだけだ。
もちろん、椅子には座らない。生返事はするのだが、言葉が頭にまで届いていないのだろう。
しのぶもはじめは疲れれば座るだろうと思っていたのだが、ハンスにそう言うと諦めたように小さく首を振った。
「相手はあの<鬼>のベルトホルト隊長ですよ……三日三晩飲まず食わずで戦場を駆け回るくらいしないと疲れないんじゃないですかね」
ハンスの証言を裏付けるかのように、ベルトホルトの動きは止まらない。
行ったり来たりを繰り返しながらうわ言を繰り返すベルトホルトなどなかなか見る機会がないというので噂が噂を呼んで野次馬もやってくるのだが、あまりの居た堪れなさにすぐ帰ってしまう。
子供の誕生を人一倍待ち望んでいたベルトホルトだ。気持ちは分からなくないが、これでは夜営業が商売にならない。
かと言って常連のベルトホルトを追い返すのも忍びなかった。
「大将、どうしよう?」
「どうしようもないな……」
今のベルトホルトを店の外へ出してしまうと、どこへ行くか分からない。
何かあればベルトホルトとヘルミーナの部屋からカミラが居酒屋のぶへ報せに来るという手筈になっているらしいから、どうあってもベルトホルトはここにいるしかないのだ。
結局、信之の判断でそのまま店を開けることになった。
客が入っても、ベルトホルトは狭い店内でそわそわと歩いたり立ち止まったりを繰り返している。
「どうにかならないかな、エトヴィンさん」
「タイショー、あれはどうにもならんよ。シノブちゃん、ノトホマレをお代わり」
常連に聞いても、良い対処法は帰ってこない。
心配しなくてもこれからずっとああなわけじゃないんだからと苦笑されるだけだ。
「今にして思えば、フーゴの時もハンスの時も、ああだったんだろうなぁ」
ローレンツが手酌で飲みながら呟くと、ホルガーが横で頷く。
「ああ、あの時のローレンツは今のベルトホルトみたいに……」
「うるせぇ、その時のことはお前知らんだろうが」
「ああ、そう言えば、そうか」
それでも客はやって来るもので、居酒屋のぶはいつも通りの客の入りになって来た。
日中はずっと晴れていたので、日が沈んでも暑気が酷い。
暑ければ喉が渇くのが道理だから、常連もそうでない客もきんきんに冷えたトリアエズナマを求めてやって来るのだ。
さすがにこうなると立って歩くのも拙いと気付いたのか、ベルトホルトもカウンターの端へと腰を下ろす。気も漫ろなのは変わらないが、一先ずは座ってくれたので格好が付いた。
しかし、何かを食べたり飲んだりというところまでは行かないらしい。
硝子戸が引き開けられる旅に腰を浮かしては、カミラでないと見ると項垂れて腰を下ろすというのを繰り返している。
「ベルトホルトさん、何か食べないと身体の毒ですよ」
朝から何も食べていない様子のベルトホルトをハンスがなにくれとなく気遣うのだが、上の空の<鬼>の耳には届いていない。
頑健なベルトホルトの事だから空腹で参るなどということは誰も心配していない。
ただ、ここは居酒屋だ。酒も食事もなしにじっと座られていると、どうにもそこだけ雰囲気が妙なことになる。
格好だけでも付けようと目の前にジョッキと枝豆とを置いてはみるのだが、やはり手を付ける様子はなかった。
「初産の男親ってみんなこうなのかな」
あまり気にしないと心に決めた風の信之が呟くと、エーファが溜息を吐く。
「男親はこういう時、何もできませんからね」
弟妹が生まれた時の経験があるからか、エーファの言葉には諦念の色が濃い。
最初はベルトホルトに気を使っていた常連たちも次第に慣れて、注文が飛び交い始めた。
今日は綺麗なカマスが入ったので、焼き魚が人気だ。
旬の魚に舌鼓を打ちながら、皆が夏の夜を楽しんでいる。
それにしても、カミラが来る気配がない。
お産にかかる時間には個人差があるからとエーファが説明しても、段々とベルトホルトの顔に焦りと不安の色が見え隠れして来る。
気持ちは分からなくない。
ベルトホルトの妻、ヘルミーナはまだ十七歳だ。
倍ほども歳の離れた妻の出産を、心配するなという方が無理だろう。
両手の指先を合わせてくるくると人差し指を回していたベルトホルトだが、痺れを切らしたのかついに敢然と立ちあがる。
「待てない。一度、部屋に戻ってくる」
しかし、戻ったところですることはない。
むしろ今のベルトホルトの様子を見る限りでは、邪魔にしかならないだろう。
そのことを必死に伝えるのだが、ベルトホルトは聞こうとしない。
今にも硝子戸から出て行こうとするベルトホルトをしのぶとエーファで押し留めていると、ちょうどその時硝子戸がゆっくりと開かれた。




