朝の麻婆豆腐(後篇)
「不安になるって?」
「裏口がさ、商店街の裏通りと繋がらなくなったら」
「ああ、それは」
朝起きるとまず、裏口を開けてみる。
それが信之の日課だった。通いのしのぶと違って、信之は居酒屋のぶの二階で起居している。こちらの世界に取り残される可能性は、信之の方が高い。
ただ最近は、帰れなくなることよりも別のことが気になるようになってきた。
裏口が日本へ繋がらなくなれば、ガス電気水道も当然と止まるだろう。そのこと自体も面倒だと思うが、何よりもそれで満足の行く料理が作れなくなることが嫌だった。
「しのぶちゃんは?」
「大将、はぐらかしたな」
「オレはここに住んでいるからさ。こっちに取り残されるなら、覚悟はしているつもりだ」
それもそっかとしのぶは頷く。よくよく考えてみれば不思議なことで、二つの世界を合わせてみてもこんなことに頭を悩ませているのは今のところ信之としのぶだけなのだ。
「で、しのぶちゃんは?」
「うーん、そこが難しい」
突き出した唇と鼻でボールペンを挟み、目を閉じて腕組みをする。
「こちらで暮らしても良いかなとも思うし、日本と全く行き来ができなくなったら少し困るかなとも思う」
「優柔不断だな」
「この店の存在そのものが優柔不断だからね。どちらかにはっきりしようと思ってはっきりするものでもないし」
それもそうだと思いながら、中華鍋に油を入れた。にんにくとしょうがを炒め始めると空腹を刺激する香りが漂い始める。
「……良い匂い」
「ごめん、勉強の邪魔になった?」
いいのいいの、としのぶは本を鞄へ仕舞った。香りを楽しむことに専念するつもりらしい。
自分で叩いた挽き肉を加え、中火で炒める。
「ハンスがね、醤油の作り方を教えて欲しいっていうの」
「大豆が見つかったら自分で作るつもりみたいだからなぁ」
ハンスの熱意は留まるところを知らない。
大豆が見つかれば、醤油も味噌も豆腐さえも自分で作るつもりのようだ。
兄のフーゴも一つのことにのめり込むと凄まじい集中力を発揮するというが、ハンスもそれだろう。何とかして大豆を見つけてやりたいが。
ハンスが成長する以上、追いつかれないためには信之も修業あるのみだ。
火の通った挽き肉に豆板醤と甜麺醤を加え、更に炒める。
古都の人はこれを食べたらどんな反応をするだろうか。美味しいと言ってくれるだろうか。
常連の顔を思い浮かべながら鶏ガラスープを加え、葱と調味料で味を決めていく。最後に水溶き片栗粉でとろみを付ければでき上がりだ。
二皿分盛り付けて、しのぶの前にも置く。
「食べていいの?」
もちろんと頷き、自分の皿と匙に手を伸ばした。信之はしのぶの舌を信頼している。しのぶが駄目だと言えば、その料理を店に出すつもりはない。
「あふい!」
匙を口に含んだまましのぶが笑う。自分も一口目を頬張った。
「あっつっ!」
熱さがどっと押し寄せてくる。ただ、思ったより辛くはない。これなら香辛料の辛さにあまり馴染みのない古都の人たちでも。
そう思った瞬間、ガツンと来た。
慌ててコップに水を汲み、しのぶに手渡す。自分の分はその次だ。
水を呷ると、少し辛さが和らいだ気がする。これは辛い。
しかしこれはなかなかいい出来だ。空腹にガツンとくる辛さに、汗が額を伝う。
「これはご飯が欲しくなるね」
「ああ、確かに」
丼にしてもいいかもしれない。海鮮丼なんかの丼物は古都でも意外に人気がある。
「でも、少し山椒が効き過ぎてるかもね」
「仰る通りです」
しのぶに指摘されるまでもなく、ちょっと辛過ぎた。
二人ではふはふと言いながら、食べる。慣れて来るとこの辛さ、なかなか良い。
「それで、中華はどうするつもりだったの?」
「どうするって、お昼営業の日替わり定食にしようかと思ったんだけど」
ただ、今作ってみて分かったことだが、意外に手間がかかる。今出しているような和定食よりもお客さんを待たせてしまうかもしれない。正直に打ち明けると、しのぶも同じことを考えていた。
「大将が新しいことをしたいっていうのは分かるけど、今はまず日替わり定食に慣れる所からコツコツやった方が良いと思うな」
「うん、それは分かってるんだけどさ」
どうしても何かはじめたい瞬間が人生にはある。信之にとっては、今がその時だった。
「それなら、あれはどう? 仕出し弁当」
「仕出し弁当って、ゆきつなで出していたみたいな?」
確かに弁当なら作り置きができるから時間の調整も効きやすい。鰻弁当の時のように盛況になっても困るから、少し値段は高めに設定した方が良いだろう。その分、少し豪勢な弁当にしたい。
「……弁当、いいな」
アイデアは次々に浮かんでくる。ハンスの修業にもちょうどいいだろう。
「まぁ取りあえずは、弁当よりも当面の課題ね」
「課題?」
しのぶが指差したのは、麻婆豆腐の鍋だった。
「秘密の特訓なんでしょ? ハンスが仕込みに出て来る前に何とかしなきゃ」
四人前は、作り過ぎだ。次からは二人前にしようと決意する信之だった。




