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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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朝の麻婆豆腐(前篇)

 朝の調理場には冷たく澄んだ空気が満ちていた。

 払暁前の静けさが、信之の気持ちを引き締める。

 神棚の水と榊を替えて手を合わせると、一日が始まったという気がした。

 一人きりで道具と材料とを点検し、試作する料理の手順を頭に思い浮かべていく。


 これは、秘密の修業だった。

 両手に包丁を持って肉を叩きながら思い浮かべるのはハンスの顔だ。最初は物好きな青年だと思った。すぐに辞めてしまうのではないかと疑いさえしたものだ。


 だが、彼の料理にかける情熱は本物だった。

 信之の技を貪欲に盗み、賄い飯で試す。新しい料理の創意も怠らない。

 今は盛り付けをさせながら信之の調理を見せているが、もう少ししたら店に出すものを作らせてもいいと思っている。


 だからこそ、信之は自分の腕を磨かねばならないと思っている。

 百しか知らなければ、百のことを伝えることはできない。百五十、二百、あるいは一千のことを知ってはじめて、百の技術を伝授できると信之は思っている。

 ハンスを一人前に育てるためには、自分も成長しなければならない。教わるべき先達のいない、つらく険しい修業になる。


 信之に欠けているのは、幅だ。

 これまで和を中心に修めて来た信之は他の料理については詳しくない。そのことは以前、師である塔原からも指摘されていた。

 洋食、中華、フレンチにイタリアン。トルコや南米、アフリカ料理もあるだろう。

 苦手というわけではないが、これまで信之は自分に枠を決めてきたという気がする。


 未熟な自分は和食に専心して、道を究めなければならない。

 そういう呪縛から解き放たれたのは、クローヴィンケルにだしまきを作った時だ。

 あの日急に力量が上がったわけではない。誰かに認められるという儀式が、信之には必要だったのだ。あの頃悩んでいたのが嘘のように、今の信之は自由な気持ちの中にいた。


 だから信之は挽き肉(ミンチ)を叩く。

 ここが日本で、ハンスが板前を目指しているのなら信之はかなりのことを教えられるだろう。自惚れではなく、信之にはそれだけの腕があるはずだ。

 しかしここは古都で、ハンスは板前を目指しているわけではない。

 ハンスがペリメニという餃子を提案したとき、それははっきりしていたのだ。


 作るのは、麻婆豆腐。

 これから古都は夏を迎える。信之の育った京都の夏ほどではないが、古都の夏も暑い。きっと、辛いものを求める人は多いはずだ。

 お客さんの求めるものを、先回りして考える。それも料理人の務めだ。


「おふぁようございます」


 その時裏口から声がして、思わず信之は振り返った。

 眠そうな顔をして欠伸をかみ殺しているのは、しのぶだ。


「しのぶちゃんどうしたの。まだこんなに早いのに」

「んー、ちょっといろいろお勉強したくてさ。部屋だと集中できないから」


 そう言ってカウンターに腰を下ろすと、トートバッグから日本酒や洋酒の資料を取り出す。

 付箋や折り曲げがビッシリ付いた本とノートを開き、三色ボールペンで何か書き写しはじめた。


「あれ、しのぶちゃんって眼鏡かけてたっけ?」

「部屋では時々ね。漫画読むときとかゲームする時とか。コンタクト入れるのも面倒だし」


 カウンター越しに覗き込むと、のぶではまだ扱っていない酒とどういう食事に合うのかの研究をしているらしい。

 視線に気付いたのか、顔を上げずにしのぶが呟く。


「本当にどのお酒と料理が合うのかは実食してみないと分からないけど、予想くらいはしておかないとね。食べ歩くにしても時間も予算も限られてるんだし」

「なるほど。勉強熱心だ」

「大将ほどじゃないと思うけどね」


 ボールペンの尻で眼鏡のブリッジを押し上げながらしのぶは微笑んだ。


「それで今朝は何を作ってるの?」

「麻婆豆腐」

「珍しい。中華なんて」

「いろいろ試してみたくなってね」


 ハンスの提案した餃子がよく売れていることに軽く嫉妬した、ということは言わずにおく。

 餃子にビール。

 これが合わないはずがない。売れるのも当然だ。

 目を閉じて餃子の味を思い浮かべる。羽の付いたところを箸でパリパリと割って、口に放り込むのだ。口の中が餃子一色になったところですかさずキンキンに冷えたビールをきゅーっと呷る。

 想像しただけで口元がにやけてきた。


「でも、麻婆豆腐はちょっと難しいかもね」

「どうして?」

「こっちで手に入る食材だけじゃ作りにくいから」

「ああ、そうか……」


 そもそもが豆腐だ。大豆がないと作ることさえできない。

 せめて麻婆茄子ならと思ったが、豆板醤なんかの調味料を用意できなければ、同じことだ。


「そう言えば大豆の方はどうなってるのかな?」

「どうって?」

「見つかりそうなのかなって」

「どうかなぁ」


 椅子の背もたれに体重を預け、しのぶはぐっと伸びをした。


「知ってそうな人には色々当たってみたんだけどね。そもそもこの辺りだと連合王国(ケルティア)って場所について詳しい人がほとんどいないみたいだから」

「連合王国ね」


 水を切った木綿豆腐を食べやすい大きさに切りながら、信之は相槌を打つ。

 知らない地名が出てくると、改めて自分が異世界にいるのだということを実感する。

 あまり考えないようにしてきたが、やはり不思議なことは不思議だ。


「大将は時々不安にならない?」


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