36話 死
「本当にきれい……」
「ああ……お母さんが言ってた通りだ……」
目の前の光景に目を見開かせながら思わずといった様子でそんな言葉を零した二人がいるのは霊峰ハイガンド、その頂上である。
頂上は雲よりも高く、彼らが山を登りはじめたときから徐々に雲が集まり、登りきるころにはここら地域一帯は雲に覆われていた。
そんな中ナナシたちは足を止めずに歩き続け、それでも頂上についたのは空が薄らと明るくなっていて陽が昇り始めるほんの少し前といったところだった。
道中では雲を突き抜けそれぞれ着ていた服はすっかり湿ってしまい、山の上で高度も高い位置にいることからかなり冷え込んでいたが不老不死の体をもつ二人にはたいした問題ではなく、気にせずに山の頂上の端に腰かけ、日が昇るのを今か今かと待っていた。
静かに何も話さず、黙々とその時を待っていた二人についに日の出の瞬間が訪れる。
徐々に東の空が明るくなり、雲の切れ目から幾筋かの光が射していく。
先ほどまでは影で黒く見えていた雲も、日が昇り始めると共に目に分かるほどに影が消えていき、彩られていく。
ついには雲から影は消え、陽が完全に昇るとそのまぶしい光に二人は目を細める。
光に慣れて徐々に目を開き、その目に映ったのは大雲海に日の光が反射して煌めく幻想的な光景であった。
そんな光景を前に二人は思わず言葉を零したのだった。
それからさらに時間がたつと陽はさらに昇り、空は完全に青一色に染まって、大雲海は真っ白なカーペットのようにどこまでも白く染まっていた。
それは幻想的ではないけれど世界がいかに広いかを感じさせる圧巻のもので、日の出の景色とはまた別なものである。
二人は手を繋ぎながらも空を見上げどこまでも伸びる青空に、素直に感嘆し、感動していた。
世界の広さを感じさせ、自らの存在がちっぽけな物だと認識させるその景色に、ただただ眼を奪われたようにナナシたちは時間を忘れて景色眺め、感じていた。
陽が昇るにつれて空の青色はよりはっきりとしたものに変わり時間が経つごとに少しずつ印象を変える景色に飽きることがなかったのだ。
加えて不老不死であるナナシたちには疲れもなければ空腹になることもなく、いつまでも集中できそれを遮る事柄がなかったことも合わさって二人は時間を忘れて景色を見続けることに没頭していった。
結局ナナシたちはそのまま日が沈み、赤く暖かい光で雲が一面オレンジ色に染まる様を見てから、さらに完全に日が落ちて頭上に幾万の星々が燦然と輝き彼らの姿をうっすらと照らす時まで景色を眺め続けた。
この時期に、この場から見れる景色をおおよそ全部見尽くしてからようやく、二人は我に帰ったかのように視線を互いの顔へと移し、それぞれの口が半開きになっていたのを確認してどちらからともなく吹き出して笑うのだった。
それから少しして二人は落ち着いてからひとつ深呼吸をした。
「まさか景色を見るだけでこんなに晴れやかな気持ちになれるなんて我ながら驚きだな」
「ええ、私も同じよ……でもそれも納得するには充分すぎる程の景色だったわね。あれほど幻想的で雄大な景色なんてきっと他にないわよ」
我に帰ったとはいえ二人の声には未だ感動の響きが残っていた。
また、二人は強い満足感を感じてもいるような雰囲気を纏っていた。
それは彼らが、彼らにとって非常に質の高い殺しをした時の雰囲気に似ていた。
かつて自らを育ててくれた母を殺したときのように。
長い孤独から解放された時のように。
優しくナナシたちを受け入れた狂気にも似た愛情を抱いた少女を殺したときのように。
二人は満足感を、喜びを、幸福感を強く感じていた。
けれど彼らはさらに強い快楽を得ることに迷いはなかった。
満足感を得て尚それ以上のものを二人は望んだ。
「ここ以上に君を殺すのにふさわしい場所はないだろうね。この素晴らしい場所で大好きなネムレスを殺す……今までで、いや、これからもう二度と感じられないかもしれないほどの快楽を得られそうだ」
「ああ……私はついに殺されるのね。こんな素晴らしい景色の中でナナシの大きな愛をすべて受け止めることができるなんて……私の死で愛する人に最高の快楽をあげられるなんて……なんて素敵で、なんて幸せなことかしら。私は最高の幸せ者ね。愛されて殺されて、それで大好きなナナシの心を満たすことができて、死んだ後もずっと大好きなあなたに想われ続けるんですもの」
どちらも無垢な子供のように笑みを浮かべ、どちらも狂ったような宣言をする。
ナナシはネムレスを殺して最高の快楽を得ることを。
ネムレスはナナシに殺されて最高の幸福を得ることを。
それぞれがそれぞれの想いを口にだして気持ちを昂らせていく。
あまりにも歪で狂っている思想だが、彼らは今、幸せであり、分かりあっていた。
どちらも狂気に満ちていたが、彼らの想いは純粋でとても美しいものだった。
そして彼らにとっての最高の幸せがすぐそこまで迫っていた。
ナナシは闇の空間を手元に生み出し、そこから光を反射することもない漆黒に染まった短剣を取り出した。
それは、死の書を貫くことでできた不老不死を殺すことができる唯一の短剣である『慈悲の短剣』。
「それじゃあ……殺そうか」
「ええ、お願いするわ」
それを手に持ちながらいよいよ殺すのだとナナシが宣言すればネムレスは嬉しそうに笑いながらそれを受け入れた。
ナナシはネムレスを抱き寄せたかと思うと唇が触れる程度の軽いキスをする。
そして至近距離でネムレスの目を熱のこもった目で見つめながら心臓へとゆっくりと突き刺していく。
「ああ……分かるわ……刃が刺さるごとに本当の死が近づいてくる……なるほど……これは確かに苦しむことなく死ねそうね……」
「そうか……それはよかったよ」
まだ心臓に届いているわけではないが確かにネムレスは刃が進むごとに死を感じていた。
そこに痛みや苦しみはなくどこか温かさを感じるもので安心できるものだった。
そのことにナナシは安堵する。
やはり大好きな人を苦しませたくはなかったから。
「思わず……何も想いを残さず死んでしまいそうだわ……でも……それは……ダメッ――! ぐぅ!?」
「ネムレス!?」
どこか安心しきったかのようにゆっくり目を閉じていくネムレスだったが突然目を見開いたかと思うと痛みからか顔を歪める。
それを見たナナシが慌てて彼女の名を呼び、進めていた刃を止める。
だが、そんなナナシの手をネムレスは握ると刺すように力を込める。
「気に……しないで……! これは……私の意思……! 私は死ぬけれど……殺されて幸せだけど……」
痛みに耐えるようにしながらも薄く笑みを浮かべてとぎれとぎれに言葉を紡いでいくネムレス。
その言葉をナナシは一字一句も聞きのがさないように集中する。
「でも……! ……しょに……いるから……! 私は……! ナナシと……一緒に居続けなきゃいけないから! ……すべてを消させはしない! 私の想いだけは……残す!」
何かに抗うような意思と決意をその目に宿らせながらネムレスは言葉を絞り出す。
約束していたから。
殺されてもナナシを一人ぼっちになどさせないと。
自分のように長い時を孤独に過ごさせはしないと。
そうナナシに約束し、そう自分自身に誓ったから。
だからネムレスは抗っている。
何の思い残しも無く死ぬことができるという『慈悲』を彼女のナナシに対する狂った想いが拒ませていた。
『慈悲』を拒むが故の苦しみを彼女は味わっている。
その苦しみは生きたまま内臓をかき回されるよりも厳しい、想像を絶するほどの苦しみだった。
けれども彼女の狂気はそれに屈することはない。
その様子をナナシは黙って瞬きもせず目を離さないようにして見ていた。
もっと言えば見惚れていた。
彼女の様子から相当の苦痛を感じているのは間違いないだろうが、それでも彼女は戦っている。
そんな彼女の姿はとても美しいとナナシは感じていた。
見惚れてはいたがナナシは何もしていないわけではなかった。
ナナシも全力を込めて短剣を心臓へと突き刺そうとしていた。
だが、ネムレスが何かに抗い始めてから突然短剣が進まなくなった。
まるで何かにぶつかって動かなくなったように。
「ネムレス……君は本当にすごいよ……綺麗だ……大好きだ……だから絶対に殺すから……もう少しだけ頑張ってくれるかな?」
「もち……ろんよ……ぐぅ!?」
全力で短剣を突き刺そうとしながらもナナシは思ったことをそのまま口に出す。
苦痛で周囲の声など聴きとるのも辛いだろうにネムレスはそれを聞き笑みを作ろうとしていた。
だが、痛みが彼女の顔を歪ませる。
「後少し……! 後少しだから……頑張れ……!」
振り絞るようにナナシが声をかけながら短剣を刺そうと力を込め続ける。
ネムレスはナナシの応援に苦痛で顔を歪めながらも何とか笑みを浮かべていた。
そしてついに短剣の刃が心臓へと到達し、それを貫いた。
貫く瞬間にはそれまでの抵抗が嘘のように刃が入りそれで体勢を崩したナナシはネムレスに覆いかぶさるように倒れた。
丁度ネムレスを抱きしめるような形で倒れたナナシの耳元でネムレスが最後に呟いた。
「……愛してるわ、ナナシ。いつまでもあなたの――――」
「ああ、僕も愛してるよ……これからもずっと想い続けるよ……」
ナナシはネムレスの体を強く抱きしめた。
もう命のないその体を強く抱きしめつづけた。
ネムレスの顔はやはり痛みで歪んでいたが、それでも満足そうに笑っていた。
その笑みと痛みによる歪みによってその死に顔はとても綺麗なものとは言えないものだったがナナシはそれを見て何よりも美しい顔だと感じた。
ナナシの眼からは涙がこぼれていた。
けれどもナナシはこれまでに見せたことがない満面の笑みを浮かべ楽しそうな表情をしていた。
ネムレスとの別れはナナシに確かな悲しみを与えた。
だが、それ以上に、これまでにないほど大きな快楽をナナシに与えていた。
だからナナシはその快楽を、ネムレスが与えてくれたその快楽を噛み締めるようにしながらもネムレスの体を抱き続けていた。
どこまでいってもナナシは人を殺して快楽を得ることを求める狂人である。
やがてネムレスの体が完全に冷たくなってもナナシはネムレスの体を抱き続けていた。
未だ強い快楽を感じていてそれがある程度治まるまでナナシは動くつもりはなく、そもそも動けなかった。
それはまるで獲物を丸呑みしてゆっくりと消化する蛇のように、ナナシは快楽を消化していた。
それからナナシがようやくネムレスの体を抱きしめるのをやめ、ゆっくりと離れたのは太陽が頭上を通り過ぎ、辺りがオレンジ色に染まった頃だった。
ようやく動くことができるまでの余裕を取り戻したナナシだったが未だ心は強い快楽で満たされていた。
「ああ……ネムレス、君はやっぱり最高だよ。想い続けるだなんてそんな約束する必要なんてなかった……! そんなのがなくたって君のことを忘れるだなんてできるわけがない……!」
『そう? それも嬉しいけれど私ははっきり正面から言われてとても嬉しかったわよ』
ナナシが笑みを浮かべながらつぶやいたひとりごとに対して確かな返事が聞こえた。
それは先ほど殺したはずの少女の声で、思わずネムレスの体を見つめるが間違いなく死んでいた。
そもそもその声はもっと近くから聞こえていたことにナナシは気づく。
その声が聞こえた場所……自分の胸元に目を向け、服の下から短剣を模したペンダントを取り出す。
それは淡く光ったかと思うと何かが現れナナシの手の上にちょこんと降り立った。
肩の辺りで切り揃えられた紅い髪に黒色のワンピースを着たその少女は手のひらに収まってしまうほどに小さいけれど、それでも間違いなくネムレスだった。
『ふふっ、驚いた? まあ、私も正直驚いてるのだけどそんなことはどうでもいいわよね? 私は幸せに満ちてナナシに殺されることができた。そしてこれからも一緒にいられる。それだけが大事なことよね?』
「……え? ……『記憶の断片』じゃない……のか? 本当に……?」
まるで悪戯を成功させたかのような笑みを浮かべるネムレスにナナシは目を見開いて呆然としていた。
その様子にネムレスはますます楽しそうに笑みを深めた。
『ふふふっ……ナナシもそんな顔をするのね。そんな顔を見れたんだから死んだ甲斐があるってものよ。そしてこれは記録ではなく確かに私はここにいるわよ』
「っ―――そっか……本当に傍にいてくれるんだね。それもこんなはっきりと感じられる形でいてくれるなんてやっぱり君はすごいよネムレス』
『すごくなんかないわ。ナナシのためだからこそ抗えた。だからこれは当然の結果よ。だってナナシは私の全てだもの』
ネムレスの言葉にナナシは泣きそうになるのと嬉しさで頬が緩むのとで無茶苦茶な顔になりながらネムレスのことを称賛した。
そんなナナシに軽く笑いながらもナナシの手の平の上に立ったネムレスは腰に両手をあてて自信満々に答えたのだった。




