私とばあやのお別れ
私はお兄様と別れて自室に戻ると、読みかけの本を手に取り、読み始める。
教養を深めるということ、そのための行為には終わりがない。
世界にはまだまだ私の知らない知識があって……そしてそれらは日々改められ、またそこから新たに生まれていく。
そうした新たな知識に触れる度に、考え、そして自分のものにしていく……それが、純粋に楽しいのだ。
「……失礼致します、お嬢様」
ノックと共に入ってきたのは、ばあやだ。
彼女は部屋に入るなり、ランプに火を灯す。
本の世界に入り込むように集中していたら、いつの間にか日が沈みつつあった。
「もうこんな時間だったのね」
本から手を離し、体を伸ばす。
ポキポキ、と骨が軋む音がした。
「ばあや、お茶を淹れてくださる?」
「はい、承知致しました」
流れるような手つきで、ばあやがお茶を淹れる。
「……うん、やっぱり美味しいわ」
飲み慣れた味に、私はホッと息を吐いた。
次の瞬間、ばあやが躓いて転んだ。
「大丈夫? ばあや」
「え、ええ大丈夫ですよ。ご心配をおかけしまして申し訳……あいたたたっ」
立ち上がろうとした瞬間、ばあやは痛みに顔を歪めて蹲る。
「全然大丈夫そうではないわね。誰か」
ベルを鳴らして待つと、アンナが入って来た。
「護衛隊の誰かを呼んで。ばあやが転んで怪我をしてしまったの」
「承知致しました。合わせて、医者を呼んでおきます」
「そうね。頼むわ」
「申し訳ございません、お嬢様……」
「謝る必要なんてないのよ、ばあや。今は自分の怪我のことだけを考えていてね」
それから程なくして護衛隊の隊員が到着し、ばあやを負ぶさって出て行った。
「……どうやら、足を骨折をしているようです。暫くは安静にと」
「そう……。暫くばあやの仕事を皆で請け負うように、言わないとね。お父様にも報告しないと。それから貴女から、ばあやには自分の体を大事にするように伝えておいてちょうだい」
「承知致しました」
「ああ、心配。きっとばあやは、ゆっくり休むように言っても、かえって気を揉むような人だから……」
私の言葉に、アンナは苦笑いを浮かべつつ頷く。
「我々が、しっかりと仕事は引き継ぎます。恐らく一番気にかけるのは、メルリス様にご迷惑をおかけするということでしょうから」
「迷惑など……いつもばあやには助けて貰ってばかりだというのにね」
小さい頃から教育係として側にいてくれたばあやは、私ににとって家族も同然。
お母様が亡くなった後は、より心の拠り所になっていた。
「とにかく、まずはお父様への報告ね。アンナ、お父様はどちらに?」
「今は、書斎にいると伺っております」
「そう。では、少し机の上を整理したらすぐに行くから、アンナはお父様にその旨をお伝えしておいて」
「承知致しました」
アンナが去った後、私は再び机の方へと戻る。
駆け出したい気持ちを抑えるように、息を吐いた。
私が行けば、ばあやはきっとそれどころではないというのに気を使ってしまうだろう……そんな無理をばあやにはさせたくない。
大丈夫……骨折だ、部位によって治るまでの期間はかかるだろうが、時間が経てば治る。
自分でも驚くほど動揺している心を落ち着けるように、そう言い聞かせた。
……それだけ、私の中でばあやの存在が大きいのだろう。
少し気持ちが落ち着いたところで、私はお父様の書斎へと向かっていった。
それから暫く時が経っても、中々ばあやの具合は回復しなかった。
骨折だからそんな早くに完治することはないと頭では分かっていながらも、心配で仕方がない。
「ばあや。調子はどう?」
普段は屋敷内の使用人居住区に立ち寄ることはまずないが、彼女が心配でつい足を運んでしまったのだ。
ばあやは私の登場に、一瞬驚いたように目を丸め……けれども次の瞬間、穏やかな笑みを浮かべていた。
「お嬢様がいらっしゃったお陰で、明日にも治ってしまうかもしれませんね」
そう言ったばあやの瞳には、けれども影が差している。
「……ばあや」
私は呼びつつ、そっと手を掴んだ。
深くシワが刻み込まれた、温かい手。
私をいつも、守り導いてくれていたそれ。
ばあやは、小さい頃から比べて大きくなった私の手に視線を落とす。
「本当に、大きくなりましたね」
ばあやはもう片方の手を更に私の手の上に重ね、ゆっくりと撫でた。
「お転婆で、けれどもいつも私ども使用人にまで気を配るような優しくて天真爛漫なお嬢様。貴女様の成長を見届けるのが、とても誇らしくて楽しゅうございました」
「……ばあや。そんな別れのようなことを言ってはダメよ」
「申し訳ございません。少々感傷に浸ってしまいました」
そう言いつつ、珍しく悪戯っ子が浮かべるような笑顔を浮かべる。
「ですが、お嬢様。暫しお別れです。ここにいても、お嬢様のお役に立てない以上……一度、アンダーソン侯爵領に戻って静養致します」
役に立つなどと考えなくても良い……だから、ここにいて。
そう喉元まで出かかった言葉を、飲み込む。
よくよく考えたら、当たり前のことなのだ。
病気や怪我をしたその時に、領地に戻ることは。
特に今回は、病ではない……領地に里帰りするだけ。
家族の元でゆっくり療養することは、むしろ良いことなのだろう。
それに、王都に来て以来領地に帰っていないことがずっと気にかかっていたのだ……そう言った意味でも今回は良い機会の筈。
「……ちゃんと、帰って来る?」
だと言うのに、私はそんな問いかけをしていた。
まるで駄々をこねるような子どものそれに、けれどもばあやは柔らかく微笑む。
「ええ、ええ。勿論ですよ。ばあやの戻るところはお嬢様のもと以外ございませんからね」
「なら、ばあや。必ず完治させて戻って来てね」
「はい、畏まりました。お嬢様」
迷いのない肯定に私はホッと息を吐きつつ、椅子に腰掛け直した。
「いつ領地に行くの?」
「明日には」
「明日! 随分と急なのね」
「怪我以外具合の悪いところはございませんし、特別に専用の馬車を仕立てていただいておりますので、道中は楽をさせいただけますので」
「そう……それなら、安心ね」
「はい。完治致しましたら、すぐに戻りますので」
「ええ、ばあや。私……貴女の帰りを待っているから」
……その翌日、ばあやはアンダーソン侯爵家が準備した馬車に乗って領地へと戻って行った。




