そしてわたくしの人生だけが続いて行きました
── ゆき
── ゆき
わたくしを呼ぶ、そのお方の懐かしい声が聞こえました。
とても温かく、美しく、愛しいお声でした。
目を開けると牛若さまがそこにいらっしゃって、温かい腕にわたくしをお抱きになり、わたくしの顔を覗き込んで、微笑んでらっしゃいました。
「牛……若……さま」
わたくしも微笑み返しました。
「ご無事だったのですね……。よかった」
十七年の歳月を越えて再びお会いしたそのお方は、あの頃のままのお姿で三十歳になっていらっしゃいました。
いつの間にか辺りは晴れ渡り、冬の山道に降っていた雪は、舞い散る桜の花びらに変わっておりました。
柔らかな花びらが降る中に、牛若さまは白いお着物をお召しになり、お手にはあの横笛を持ってらっしゃいます。
「ゆき」
あのお方のお声がわたくしの名を呼びました。
「美しく生きろと言ったのを叶えてくれたな」
「わたしを……覚えてくれたのですね?」
そう言いながら、わたくしは気づいて、自分の右頬を触りました。
「ああ……この痣があって、よかった」
「痣はもうなくなっておるぞ」
意地悪そうな、子供のような微笑みとともに、牛若さまが仰います。
「お師匠が、大人になれば自然と消える、と言っただろ?」
牛若さまが嘘を申されるわけがない。あの醜い痣は今、わたくしの顔から消えているのだ。
痣がないのに、牛若さまは、十七年振りに会ったわたくしのことをわかってくださったのだ。
そう思うと、涙が止まらなくなりました。
「強く、逞しく、美しくなったな! ゆき」
「はい……。はい……」
止まらない涙を隠すこともせずに、わたくしは何度もうなずきました。
「牛若さまがこの世にいらっしゃると……。いつかきっとまたお会いすることが叶うと……。それだけを励みに生きて参りました」
牛若さまがわたくしを抱き締めてくださいました。
桜の花びらの舞い散る中、言い含めるように、あのお方が仰いました。
「強い子を産め、ゆき。たった一人でも、己の信じるものを信じて、強く、逞しく、美しく生きて行けるような子を。お前なら、産める」
「あなたのお子を……」
その胸に抱かれながら、お願いしました。
「くださいまし」
どれくらいそうしていたのでしょう。
時間はもうどこにもなくなったように、わたくし達はずっとそうしていたように思います。
気がつくと、雪でした。
わたくしの頬を誰かが張っています。
綺麗な黒髪を後ろでくくった、大きな目をした男の方の顔が目の前にありました。
「大丈夫か!? よかった! 目を覚ましたな?」
とても強く、逞しく、美しいその瞳でわたくしをまっすぐ見つめ、意識を取り戻したわたくしを見て心から安心したように、笑ってくださいました。
それが今の夫、武雄でございます。
それからわたくしは武雄におぶられ、彼の村に連れて行かれました。
わたくしは東北へ歩いていたつもりが、自分が南西の道を下っていたと知りました。
そこは備前の国の美作というところでした。
貧しい京都の農村とは違い、そこでは農作物が豊かに育ち、人々が笑顔でした。
元気になると、わたくしは武雄から求婚されました。
幻の中で出会ったことで安心してしまっていたのでしょうか。わたくしは牛若さまに会いに行かなければという気持ちもなくなっており、優しくて温かい武雄の気持ちに快く応えました。
わたくしの顔の痣は、幻の中で牛若さまが仰った通り、綺麗に消えてなくなっておりました。
それから約二年後、平泉で牛若さまが藤原泰衡に追い詰められ、自害されたと聞きました。
一人だったならわたくしはとても生きてはいられなかったでしょう。
ですが、わたくしの側にはいつも武雄の温かい笑顔があり、わたくしの胸には産んだばかりのわたくしの息子、武丸がおりました。
武雄には昔わたくしが牛若さまとお会いして、救われたことだけを話しました。気丈に胸を張って涙を流すわたくしの背中を撫で、武雄は一緒に泣いてくれました。
はい。息子の武丸は健やかに育ってくれました。
食べ物もよく、体も強かったので、村で一番強かったんですのよ。
世は鎌倉に都を移し、武士の時代となりましたので、農民から武士に身分を上げようと、うちの村でも子供を強くするよう、剣を習わせております。息子は今、それの師範などをやっております。
わたくしは牛若さまの教えの通り、息子を強く、逞しく、美しく育てようとしました。武士にはなれませんでしたが、心の正しい子に育ってくれたと思っております。
聞いてくださって、ありがとうございました、旅のお方。
わたくしのようなただのお婆の話を聞いてくださるなんて、本当に貴方はお優しい方ですね。
わたくしの人生には牛若さまのような英雄譚も波乱万丈もありませんでした。でも、苦しい思いをしながらも生きて来てよかったと思っております。
わたくしが京都で家畜同然の扱いを受けながらも生きて来られたのは、すべて牛若さまのお陰でございます。
あのお方がいらっしゃらなかったら、きっと早々に生きる気力を失って、今の夫と出会うこともなく、武丸を産むこともなく、この世から逃げ出してしまっていたと思います。
わたくしは今、幸せです。
牛若さまは今も、わたくしの胸の中だけでは、生きていらっしゃるのです。
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老婆の話を聞き終えて、私は愕然とした。
備前の国、美作の宮本村。そこで会った老婆からまさかこんな話が聞けるとは思ってもみなかった。
私は老婆に言ってあげたくてたまらなかった。しかしタイムトラベラーの厳しい決まりがあった。未来に起こることを、決して過去の人間に教えてはいけない。
教えてあげたくて、たまらなかった。約400年後、その名を日本の歴史に刻む人物を、あなたは子孫として残すことになるんですよ、と。
宮本武蔵の過去を探ってここへ来て、まさか源義経と出会うことになるとは、思ってもみなかった。




