牛若さまぁ、牛若さまぁ
源氏と平家の合戦が始まったとの報せを耳にした時、わたくしは十八でございました。
初めのうちはただ牛若さまのご無事だけをお祈りしていましたが、度重なるご活躍の噂を耳にするたび、心配などどこかへ吹っ飛んで行きました。
軍勢を率いて急な崖を駆け下りての急襲、船から船へと飛び移っての大活躍など、報せを聞くたびに胸がわくわくしました。
まるで古代の神様の戦いのお話を聞くように、噂を耳にするたび、大人になってからも、幼い少女のように胸を高鳴らせました。
生活はとても苦しく、顔の痣も醜いまま何も変わりませんでしたが、牛若さまのお噂があれば、わたくしは目を輝かせて生き続けることが出来ました。
わたくしは誰とも契りを結んではおりませんでした。もちろん痣のせいもありましたが、それよりも自分がそういうものを拒んでいたためでした。
女ならば何でもいいとばかりに近づいて来る村の若い男もおりましたが、わたくしは頑なに拒みました。どこのお姫様だよと言われても仕方がないほどの高貴さを身に纏い、皆に引かれていたようにも思います。
牛若さまだけこの世にいらっしゃれば、わたくしはそれですべてがよかったのです。
牛若さまが妻を娶られたと聞いても、白拍子の美しい女性と恋に落ち、妾として迎えられたと聞いても、わたくしにはあのお方の英雄伝説の一環としてのものでしかありませんでした。
あのお方の妻になれなければあのお方を失ってしまうなどという考えは、わたくしの中にはなかったのです。
やがて源氏が平家を下したとの報せを聞きました。
これで貧しい暮らしもよくなるかもしれないと周りの人達は喜びました。
わたくしも同じ気持ちでした。お優しい牛若さまが、きっとわたくし達庶民のことを想ってくださって、世直しをしてくださるだろうと期待しておりました。
牛若さまが兄の頼朝さまと喧嘩をされたと聞いたのは、それから少しだけ経ってのことでした。
詳しい事情などはわたくしごときにはわかりませんでした。頼朝さまは大層弟君をお嫌いになり、とうとう冬が始まる頃には討伐に繰り出されたとのこと。
わたくしはとても心配でした。
愛妾の静御前さまが吉野で捕まったとの報せを聞いてからは、居ても立っても居られませんでした。牛若さまとの間に授かった男の子を由比ヶ浜に沈められ殺されたとのこと。なんてお可哀そうなことでしょう。
わたくしに家族はおりませんでした。
クニさんはわたくしを娘と呼んでおりましたが、わたくしがクニさんを母だと思ったことはありません。クニさんも心の中ではわたくしのことを家畜だと思っていたに違いありませんでした。
牛若さまはご正妻の郷御前さまを伴って、再び奥州藤原氏を頼って平泉へ逃げられたとのこと。
わたくしは二十六になっておりました。
子供はおろか、まだ男の人すら知らず、自分が家族を持てるなどとはとても思っておりませんでした。
それだけに、牛若さまには愛する家族を持ち、お幸せでいてほしかった。
それが今、脅かされようとしているということに、心が張り裂けそうな思いでした。
ある夜、わたくしは夢を見ました。
牛若さまが身を寄せられているという、奥州の藤原秀衡さまが、年老いてお亡くなりになる夢でした。
牛若さまは秀衡さまのご加護を受け、兄の頼朝さまに対抗して平泉で将軍におなりになる予定だったのだと、その夢で知りました。その、頼みの秀衡さまがお亡くなりになった──
ご立派に、さらにお美しくなられた牛若さまが、お亡くなりになった秀衡さまのお側で涙をこぼしていらっしゃいます。
そんな牛若さまの前に、恐ろしい顔をした青鬼が座っていました。
牛若さまが、青鬼に話しかけます。
「泰衡どの、これからはよろしくお願いいたしますぞ」
泰衡と呼ばれた青鬼が振り返ります。
振り返った瞬間、それは人間の顔になり、柔和な笑顔をそこに浮かべて、牛若さまに言いました。
「お任せください。この藤原泰衡、父の遺志を継いでおります。必ずや、あなた様を将軍にし、鎌倉の頼朝公に対抗してみせましょう」
嘘だ。
わたくしには見えておりました。
その青鬼が、再び牛若さまに背を向けた時、その汚い口から青い蛇のような舌を覗かせ、邪悪な笑みを浮かべたのが。
冬の始まった時期でございました。
わたくしは居ても立っても居られなくなったあまり、ある日、クニさんの家を抜け出し、身一つで歩き出しました。
奥州が京都からどれほど遠いのか、愚かにもわかっていなかったのでございます。
牛若さまに知らせなければ、牛若さまに知らせなければ──そのことばかりが頭の中を駆け巡っておりました。
ばかな女でございます。自分の勘だけを頼りに、それを信じて、あてもなく歩きました。奥州は寒い場所だと聞きましたので、寒いほうへ、雪の降るほうへとただ歩いて向かいました。
やがて山道となり、雪も激しく降りはじめました。もうどれだけ歩いたのかもわかりませんでした。ただ、雪がだんだんと深くなるほうへ、奥州はこっちだとひたすらに信じて、足の感覚がなくなっても、止まらず歩き続けました。
「牛若さま……」
「牛若さまぁ……」
口はそればかりを繰り返しておりました。
お会いできたとしても、牛若さまはわたくしのことを覚えていらっしゃるだろうか。わたくしが九つ、牛若さまが十二歳の時に、ただ一度会っただけの女のことなど……。そう何度も思うたびに、信じるのでした。牛若はたとえわたくしのことを忘れてらっしゃったとしても、顔を見るなり思い出してくださるに違いないと。この顔の醜い痣を見た瞬間に、わたくしの名前を「ゆき」とお呼びくださるに違いないと。
痣があってよかった。産まれて初めてそう思いました。
道すがら逞しい木の棒を雪の中に拾い、それをついて歩きました。それがなければもう足では立っていられませんでしたので。
「牛若さまぁ」
「牛若さまぁ」
くっつきそうになる唇で、呪文のように呟きながら、歩いて、歩いて、歩いて──そして山道の途中で雪の中へ倒れ込みました。
やがて何も感じず、何も聞こえなくなっていきました。




