59.「士農工商」と東アジア三カ国の『身分制』を考える
「士農工商」と聞くと一昔前の学校教育で受けた江戸時代の武家社会の『身分制度』と思ってしまうが、実は、この表現は二千年以上前の古代中国の「春秋時代」に、既に登場している表現だった。
春秋戦国時代のことを記述した「春秋左氏伝」を拾い読みしていると古代中国に於いては、既に城郭都市を中核とした「国家」というものが形創られていて、思想的にも身分制度の祖型が明確になりつつある時代だった。
即ち、「方形の城郭都市」に居住する王と王を推戴する貴族層によって、強固な階級制度が既に成立していた古代中国では、その国家の構成人員の階級や職能が「士農工商」として意識されているのである。
その身分は、「菅子」や時代が下がるが「漢書」にも記述されているという。
王や貴族に次ぐ支配階級上層部である「士」は官僚層であると共に軍事力の中核でもあったし、後に中国の知識階級として成長する集団でもあったのである。
そして中国の知識階級集団は時代が下がると「儒教を理解している政権中枢を支える知識人層」を指すようになっていくのである。
しかし、古代中国で指摘された「士農工商」の身分制が古代東アジア三カ国の身分制度として、定着していった訳ではないようだ。
もちろん、三カ国共に時代による大きな変遷があった上に、中国の場合強力な「王権」によって、国家の運営が覇権主義主流で行われた時代が長かった。
加えて、中国の場合、絶え間ない北方からの「異民族の侵入」が続いた上、武力を手中にした勝者は、支配者としての実権を手放すことはなかったし、政権交代は、前王朝に壊滅的な惨害と身分制度の崩壊を招くのだった。
その点、列島の政治機構と権力構造の推移はシンプルであり、源頼朝による「鎌倉幕府」の建設以降、実質的日本の権力者は「武士階級」だった。しかし、「承久の変」で絶対的権力を掌握した鎌倉幕府の得宗家を中心とする北条一門だったが、天皇家と堂上貴族層の地位を完全に奪うことはなかったのである。
即ち、「天皇家」が象徴的存在として全国民の上に輝き続ける存在であることを許容する一方、武家はその臣下としての地位を甘受する姿勢を歴代武家政権は是認し続けたのである。
(古代中国の「士農工商」思想と中国史に於ける『科挙制度』の存在感)
古代中国に於いて、既に、「士農工商」の身分制度が存在した経緯は上記したが、時代と共に実質的権力は貴族層から「官僚層」へと移っている。それが顕著になるのが、宋代の「士大夫」層の躍進だった。「文人統治」を国家の基本姿勢とした宋にとって、科挙によって選抜された高級官僚層の存在は、宋代の国家運営の中核であり、階級制度の根幹をなす重要な地位だったと考えている。知識人以下のその他の庶民層には「良民」と「賎民層(奴隷)」があるが、ここでは触れない。
しかし、この後の中国は契丹、女真、モンゴルと北方騎馬民族に連年侵略されて、最高支配者も漢族の王族から異民族の侵略者へと大きく変わるのだった。
その中で、異民族の支配階級と中国人民の間に立って官僚層を形成することが出来たのが『科挙』によって選出され、異民族によって採用された漢族の官僚達であった。
もちろん、北宋の崩壊時や明王朝の内乱による騒乱時には政権の転換に時間を要した瞬間もあったし、科挙廃絶の危険に瀕した時期もあったが、「元」、「清」両王朝共に、効率的な異民族支配に有効な科挙出身官僚層の全廃を行うことはなかったのである。
即ち、元朝以降の歴代王朝に於いて、「科挙出身官僚層」は中国の身分制の中核を占める重要な位置を維持し続けたと個人的には思っている。
言葉を換えると科挙試験の出題が「四書五経」等の『儒教』関連の古典から選ばれていた背景もあって、中華王朝の「政治思想」と「身分制度」は儒教によって明確に拘束・固定化されていた可能性もあって、小数の異民族による漢民族支配は中国人に深く浸透している儒教思想を完全に無視しての支配体制の確立は極めて難しかったのである。
その妥協点の一つとして、ある程度の儒教倫理の許容は異民族支配であっても最低限許容すべき政治思考として理解されたのではないかと考えている。
時代は下がって「清朝」の場合、異民族である満州族の皇帝の下にある満州族の強力な軍事組織「八旗兵」の存在が大きかった。更に中国人によって組織された親衛隊的な「漢人八旗」も編成されたのである。
しかし、漢人との融和を望む満州族皇帝によって、中国古来の『科挙』出身者が清朝の政治機構に次第に取り入れられた結果、清朝中期以降、科挙出身者の発言権が大きくなっていったのである。その背景には、四庫全書を編纂させた「乾隆帝」を初めとする清国皇帝の中国伝統文化への深い理解も重要な一因となっていたのである。
何れの民族でも侵略者である暴力集団に生殺与奪の権を握られ、一方的に下層階級に位置付けられた人民ほど悲惨な存在はない。
その点では、清朝の康熙・雍正・乾隆の三人の皇帝によって清朝の最盛期が現出した功績は大きい。この時代長く続く平安の時代の演出によって、漢人王朝では起きなかった人口大爆発が起きたことも治政の安定と平和の証明となろう。
平和な時代が続くと「文治主義」の象徴的存在である『科挙出身者』の地位が安定したが、近代西欧の『資本主義』と対峙した時に幼いときから儒教教育を徹底的に施された科挙出身者の大欠陥が露呈することになるのである。
長い間、中国の身分制度の中核を担った科挙出身官僚層だったが、近代科学と軍事力で武装したヨーロッパ勢力との遭遇に於いて、その無能故に崩壊・消滅する時期を迎えるのだった。
(「李氏朝鮮王朝」の身分制)
中国の身分制度以上に厳然たる階級意識を感じるだけでなく、一般民衆への圧迫と虐待が日常化していたのが、「李氏朝鮮王朝の身分制」だったのではないかと誤りかも知れないが個人的には思っている。
「朱子学」を基本とした国家思想を徹底した李氏朝鮮では、時代が進むと共に上級階層である『両班』身分とその下に連なる
>「中人」(医学等の専門職階級) >「常民」(日本でいう農工商) >「賎民」(奴隷、芸人)
との階級格差が次第に大きくなっていくように感じることがある。その原因の一つに高麗時代に広く尊崇された「仏教」への弾圧があった。仏教僧の首都京城への入城が禁止されただけでなく、主要とし内部への寺院の建設も禁止されたのだった。
その他にも、中国民衆に広く信仰されていた「道教」も朝鮮に古くから入っていたが、儒教に比べて異端とされ日陰の存在であったのである。
即ち、宗教的には李朝の国民は中国や日本と異なり儒教専修の国家思想を徹底的に教育された「儒教専修」の国家だったのである。
朱子学を学び、儒教を尊崇する知識階級は『両班』と呼ばれ、王や王族を除く身分階層の最上位に位置付けられていた李朝では、両班達は官僚及び官僚予備軍であると共に、全国の主要「地主層」でもあったのである。
両班に続く、実務が必要とされる医学や通訳、法学等の担当者は「中人」として下級官僚に組み込まれ、人口の大部分を占める「農工商者」は、卑しい肉体労働担う社会の底辺を構成する「常民」として位置付けられたのだった。
もちろん、常民以下の「賎民」や「奴隷」、「芸人」は更にその下の最下層の人間に位置付けられていたのである。
日本では農村居住者の富裕層は、広大な田畑を所有する豪農である場合が多かったし、藩から厚遇されて「名字帯刀」を許されるケースも多かったが、朝鮮農民の場合、納税者としての責任を両班から追及される不利な立場でしかなかったのである。
また、特殊技能者である「医者」や「通訳」は日本では比較的に優遇されるケースが多かったのに対し、李朝では技能を持つ「中人」として冷遇されるに止まっているところをみても、儒教以外の知識を有する知識人が冷遇されていた印象が強い。
どうも、李朝では「両班」の権限が、政治的だけでなく地主としての面からも強すぎて、日本の諸大名が幕府によって随意に移動させられる所謂「鉢植え」状態だったのとは大きく相違しているように感じる。
その結果、李朝末期には両班の持つ多くの諸権限を侵害するような「民乱」と呼ばれる抗議活動が頻発するが、儒教精神を正統とする両班達によって過酷な重罰によって圧殺されている。
強力な身分制度下で進む官吏の腐敗と民衆への圧殺行為が、李朝の経済発展と文化の進展を阻害するのだった。
李朝の身分制を考える時、支配者階級である『両班』の重圧が良民を含む下層階級への極端な重圧となって社会の発展を大きく阻害した印象を免れない。
儒教制度、特に「朱子学」の極端な信奉が背景にあっただけでなく、両班人口が李朝初期の数%から、李朝末期には50%を超えるところまで増大した点をみても、極端に腐敗した発展性の乏しい李朝官民の退廃と崩壊が覗える。
この硬直化した『朱子学』を基盤とした国家思想ほど、朝鮮半島の近代化の大きな妨げとなった巨悪はなかった気がしている。貧しくとも多くの国民が誇りを持って生きていける世界こそ、儒教の持つ本来の倫理観だったはずなのだが?
どのように素晴らしい真理でも、多面性を失った視点でみてしまうと、李朝の人々が『朱子学』を信仰したと同様の錯誤をどの国民も犯す可能性がある。日本人も近代で「神国思想」を信じた結果、信じ難い数の国民の生命財産を失ったのだった。
(徳川幕府の「身分制度」とその変化)
中世まで流動的だった日本の身分制度が大きく変化したのは、徳川幕府による「農本主義」の徹底により、居住地による身分が大きく分けられた結果だった。
江戸時代になると武士の俸禄が米による「石高」で表示されたように、城下に住む武士達と町人と村々に住む「百姓」身分とでは明確に区別され始められたのである。
ここでいう百姓とは農業従事者だけでなく農村に居住する各種の賦役を負担する職種も含まれる存在だったといわれている。
幕府を始め諸藩に於いて、年貢の確実な徴収こそが財政の基本であり、身分制度の維持に必須の条件だった。そのためには「米」を納入する百姓身分の掌握こそ最重要課題であり、村に居住する医者や製薬従事者、藍等の染料製造者、皮革加工者等の兼業者も支配者も賦役負担者として貴重な存在だった。
比率的にも全人口の約85%が農業従事者である「百姓」だったが、先祖以来の農地の保持と年貢の納入を大前提とした身分の継承を封建制下の日本では強く求められたのだった。
また、徳川中期になると第五代将軍徳川綱吉の強い「儒教思考」もあって、中国や李朝の文書で見る「士=士大夫及び儒者」の表現が、日本では「士=武士」と解釈されるようになると共に、「儒教=倫理規範」的な教育が徹底されるようになっていったのである。
同じ頃に、全国的に「米」以外の『商品経済』が成長し、貨幣経済の発展と共に大都市で生活する人々の「町人文化」の向上は、「士農工商」の垣根を取り除く効果があり、『明治維新』によって「四民平等」の時代を迎えるのだった。
このように東アジア三カ国の大雑把な歴史を振り返ってみると歴代「中国王朝」は、何度も異民族支配を経験したが、漢族は『儒教』を盾として侵略者の武力による「覇権主義」の強圧を緩和・変換してきた経緯を感じる。
表現が悪いかも知れないが、無知蒙昧な騎馬民族に儒教世界の倫理を注入することによって、植民地帝国の中に漢人知識層の身分を確立していったのである。
更に、隋代から始まった国家試験制度である『科挙』は中国の身分制度の一角に「士大夫層(官僚層)」の存在位置を確立しただけでなく、異民族支配に於いても上級知識人の地位を確保する貴重な働きがあったのである。
一方、忠実な『小中華』であろうと努力し続けた「李氏朝鮮王朝」では、国家思想である『朱子学』の探求を根底とする知識人である『両班』の存在が大きかった。
両班は、官僚及び官僚予備軍である一方、地方では有力な「地主」層でもあった点に李朝庶民の悲劇性の淵源が内在していたと思えるのである。
加えて、草創期を終えた李朝の長い歴史の大半は、左右両派による「派閥抗争」の歴史であった。勝利した派閥も時間が経つと、その内部が左右両派に分かれて陰湿な抗争を繰り返した上、時として血縁関係を通じて政治に介入する「勢道政治」が李朝の政治的混乱を助長し、身分制の垣根さえ破壊するのだった。
もちろん、武士階級を実質的な頂点とする日本の江戸時代の身分制に関しても、問題が無かった訳ではない。
しかし、江戸時代に於ける『武士道』の発達は、ヨーロッパの「騎士道」に近い武家政権独特の倫理観念を醸成していったし、自らの肉体運動を厭わない侍達にとって、農工商の生み出す生産性や町民文化の生み出す日本独特の芸術作品群を自分達のものとして共有できる下地があったのである。
近代帝国主義の荒波に遭遇した時、東アジア三カ国の中で、最初に深刻な恐怖感を感じたのも武士達を初めとする日本国民であったし、西欧の先進技術の導入に「基礎理論」から勉強する必要性を感じて、真摯に取り組んだのも日本民族だったのである。
幸いなことに、長い、「一民族一国家」の歴史は、西欧大発展の基盤となった「フランス革命」やアメリカ独立に於いての『四民平等』重要性も先人達は瞬時に理解できたのだった。
「明治維新」によって古くからの「農工商を差別する」身分制は順次崩壊し、四民平等による強力な富国強兵を目指す近代国家に日本は大きく変身していったのである。




