5.手作りのパイ
ふかふかのベビーカーは座り心地良く、その点は問題ない。
ただ、妙に落ち着かない。視線が低すぎる。
ベビーカーを押すのはカミル付きのメイド。
カミルはベビーカーと歩調を合わせて、優雅に歩いている。
ちらりと見上げると、カミルはさっきまでの笑顔はどこへやら。目を細めて冷酷無比な顔を演出していた。
皇宮の廊下はきらびやかで、どこを見ても見事な花瓶や絵画などが飾られていた。
窓ガラスもぴかぴかで――ここは三階ぐらいの高さだろうか。
予想通り、外の樹木の葉は赤く染まって秋を示していた。
皇宮の廊下を進むと何回か、暇そうな衛兵とすれ違う。
やがてひときわ立派な柱と天井の区画に辿り着き、彫刻の施された扉を通り過ぎると――書庫だろうか。
分厚い本が置かれた書架だけの部屋に到着した。
その書架の中央に、ひとりの男がいる。黒髪のヘイラル帝国皇帝レインだ。
(うわ、綺麗な人でしゅね……)
艶やかな長めの黒髪と端整な顔立ち。これほど整って、美しい男性は見たことがなかった。テレビで見る芸能人よりも強い印象を残す顔立ちだった。
年齢は今、三十歳よりちょっと前だったはず。
でもしっかりとした筋肉質な身体と鋭い眼光は若々しく感じられる。
(それに……私と同じ黒髪でしゅ)
黒髪の人間はとても珍しいように思う。
今のところカミルのメイドと執事、それに今通りがかった人の中には黒髪は他にいなかった。
私の金色の瞳はカミルからのものだが、髪の色はレインからのものである。
「……カミル、突然なんだ?」
しっとりとした声は心地良いものだったが、どこか硬くて冷たい。
ぴりっとした緊張感が場に走る。
「今、陛下はお時間があると思って。ラミリアが快復したので、その報告に」
「それはもう受け取っている」
なんだか父の反応が……あまり良くない気がする。
レインは一瞬、私たちを見ただけで書架に向き直り、いくつかのファイルを手に取った。
そして壁時計を見上げると、足早に奥の扉へ向かっていく。
「陛下、お待ちを――」
「悪いが問題が起きている。例の密貿易でシェパード王国から抗議だ。これから向こうの外交官と話さなければならん」
ぴしゃりと言い切ったレインはそのまま、私たちに背を向けて部屋から出て行ってしまった。
公務なのはわかるけれど、何てことだろうか。
「ばぶぅ……」
「……ごめんね、ラミリア。陛下はとてもお忙しいの」
カミルが謝る必要なんてないのに。
ここに残ってもしょうがないので、私たちはトボトボと自室へと戻った。
カミルの顔は変わっていないのだが、どことなく落胆しているような気がする。
部屋へと戻り、私はまたベビーベッドへ。ここは安心すると思いながら、なんだか釈然としない。
まさかあんな対応をされるとは……。
腹心のメイドのひとりが籠を持って、カミルに近寄る。
「カミル様がお作りになられた、このパイはいかがしましょうか」
「そうね……」
いつの間にかカミルはパイを作って、それを陛下に食べてもらうつもりだったようだ。でもパイを届ける間さえなく、ここに戻ってきてしまった。
カミルは寂しく笑った。
「置いておいて。夜にでも私が食べるわ」
「……はい。カミル様、良いタイミングはいずれ訪れるかと」
「ありがとう、下がっていいわ」
籠は布が被せられ、そのまま部屋のテーブルの上に置かれた。
モナックは……定位置のソファーですやすや寝ている。
私はというと、怒っていた。
公務で忙しいのはわかるけれど、もう少し優しい応対はなかったのか。
カミルがこんな扱いを受けるのは間違っていると思う。
そのまま昼になり、夜になり。
今日のカミルはいつもより早く、うつ伏せにベッドへ倒れ込んだ。
読書も魔法の夜練習もなしにカミルが寝ようとしているのを見るのは初めてだった。
私は目が冴えて眠れなかったが、カミルの痛々しい声がふっと聞こえる。
「はぁ……陛下……」
それは多分、私とモナックだけに聞こえる声であった。
メイドや執事には聞かせない、落胆した声音。
胸が痛いと同時に、なんとかしてあげたいと思った。
カミルが寝息を立てて少しすると、モナックがもぞもぞと起きた。
顔を洗ったモナックが伸びをする。
『ふにゃー。よく寝たにゃあ』
『…………』
『にゃ、ラミリアちゃん……起きてるのにゃ?』
『うん、起きてるでしゅよ』
私は体勢を変えて、モナックのほうを向く。
モナックも誰もいないのを見て取って、ベビーベッドへ寄ってきた。
その途中、モナックが目ざとくパイが入った籠を見つめる。
『ふにゃ。なんか置いてあるのにゃ?』
『パイでしゅ。母さんが作りまひた』
『……にゃ。イライラしてるのにゃ』
そう、夜になっても私の怒りは完全に鎮まってはいなかった。
どうにかしてやろうかとは思っていたのだ。
『ねぇ、モナック。私ってここから動けるでしゅ? そんな魔法ってあるんでしゅかね?』
『にゃー? 身体強化の魔法を覚えたらイけるのにゃ。その魔法にゃら、感覚共有やテレパシーよりずっと簡単にゃ』
『じゃあ、今すぐ教えてでしゅ……!』
私はモナックから身体強化の魔法を教えてもらった。
全身の中に魔力を取り出して、動かすイメージだ。
数十分、モナックの指導で教えを受けると……私の身体能力は急激に上昇した。
『うんしょ、しょ……でしゅ』
カミルは寝ており、部屋には他に誰もいない。
私はベビーベッドの柵を掴むと、そのまま勢い良く乗り越えて床に着地した。
全身に魔力を行き渡らせた私は両足でぴしっと立てる。
『それでどうするつもりにゃ?』
『よくぞ聞いてくれたでしゅ。ふっふふ……』
私はさらにパイの置かれたテーブルへと向かい、よじ登る。
そして寂しく置きっぱなしにされたパイの籠を掴む。
『……盗み食いにゃ? それはマズいにゃ』
『違う! 届けるんでしゅー!』
『誰ににゃ』
『私のお父さんでしゅ! 皇帝レインでしゅよ!』
『本気にゃ? なんでにゃ?』
『それは――かわいそうでしゅ! せっかく作ったんでしゅよ!』
テレパシーで私は叫んでいた。
正直、怒ってもいたし悔しかった。
私がもっと喋れば、あの場で食べるように言えた。
でも今の私は言えない……一歳児だから。
この秘密を打ち明けるべきか、まだ判断できないのだ。
だけど何をするべきか、カミルがどうしたいかはわかる。
モナックはテーブルの上の私と籠を見ながら、首を傾げた。
『んー……まぁ、パイをレインに持っていくのはいいとしてにゃ。でもパイがなくなったら、翌朝大変なことにならないかにゃ?』
『それなら――モナックが持って行ったことにすればいいでしゅ』
『にゃんと?』
私は籠にかけられた布をちらっと持ち上げた。
籠の中には切り分けられたパイのホールがひとつ。
我ながら悪くない考えだとは思う。
『あなたは皇宮の中を自由に行き来できるんでしゅよね? 不審がられましゅか?』
『うーん、ラミリアちゃんってば中々冴えてるにゃ』
モナックが立ち上がり、ぐーっと身体を伸ばした。
そしてぴょーんと大ジャンプしてテーブルの上に音もなく降り立つ。
おおう……身体強化の魔法かな。
『確かに、あたしは皇宮の中を好きに動けるにゃ。最後にパイの欠片をあたしの口元につけておけば、多分オッケーにゃ』
『それじゃあ……!』
『付き合うにゃ。面白そうだしにゃぁ』
『ありがとでしゅ!』
私はモナックの顎へ手を伸ばし、優しくもふもふと撫でた。
モナックが協力してくれるなら成功率は段違いに高まるはずだ。
『んにゃ。籠は持てるかにゃ?』
『うん、重くないでしゅ』
腕に魔力を行き渡らせた私は籠を持ち上げた。
重さはほとんど感じないが、視界は結構遮られる。
『善は急げにゃ。あたしが偵察するからしっかりついてくるのにゃ』
『はいでしゅ……!』
ごくり。 私の脳裏にはスパイ映画の一幕が展開されていた。
深夜の皇宮を進み、パイを届けろ。
盛り上がってきた……!
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