突然婚約破棄を言い渡されましたが、私は貴方の「運命」でも「救い」でもありませんので近づかないで下さいませ
その日はとてもいい天気で、陽光は柔らかく、学園の中庭には心地よい風が吹き抜けていた。
私――セシリア・サルモンは、ベンチに深く腰掛け、お弁当として持ち込んだたまごのサンドイッチを少しずつ口に含んだ。
そのサンドイッチがとても美味しくて、我が家の料理人であるダイスには必ずお礼を伝えようと考えた時に――。
「イザベル! お前との婚約を破棄させてもらう! 誰もいないこの場で告げるのは、私の最後の情けだと思え!」
――いきなりそんな声が聞こえて、私の平穏が無遠慮に引き裂かれた。
顔を上げると、そこには金髪を逆光に光らせ、悲劇の主人公のような表情で私を見下ろす男がいた。
確か……アルティス侯爵家の三男、リュカ・アルティス侯爵令息だ。
学園一の美男子と持て囃され、生徒会役員でもある。しかし、今の姿を見る限り、その瞳には知性の欠片も宿っていない気がする。
「……あの、アルティス侯爵令息?」
「何だ、往生際が悪いぞ。お前が特待生のリエナラに行った数々の嫌がらせ、すべて把握している!」
私はそっと弁当箱を閉じ、溜息を飲み込んだ。まだサンドイッチがひとつ残っているというのに。もったいない。
「……まず、お言葉ですが、私はイザベル・イスカナル侯爵令嬢ではありません。私、一学年下のセシリア・サルモンと申しますが?」
「……えっ?」
リュカ・アルティス侯爵令息は目を見開いて固まった。そして、私の顔をまじまじと見つめている。
イザベル・イスカナル侯爵令嬢と私は確かに髪色と髪型はよく似ている。
髪色は元々似ていて、髪型はあの方に憧れて私が真似をしているのだから同じで当たり前である。全力でそっくりな髪型にしているのだ。
あとは……身長もそれほど差がないだろう。でも、それだけ。
はっきり言ってあれほどの美人と私を見間違える方がおかしい。
私は貴族の血が流れているという程度には整っているとしても、貴族令嬢の中でなら埋没できると言い切れるほどには平凡な顔立ちなのである。自慢にならないけれど。
そもそも婚約破棄を告げたというのなら、現状は婚約者であるはずなのに、その相手を見間違えるなどということはあり得ないし、あってはならないだろう。
「……婚約者を見間違えるなど、あり得ないことですし、突然私に向かって怒鳴り出すこともあり得ません。爵位に差があるとはいえ、アルティス侯爵家には正式に抗議させて頂きたいと存じます」
内心では少しビクビクとしながらも、ここで引き下がる訳にはいかない。私は精一杯の怒りを込めてリュカ・アルティス侯爵令息をにらみつけた。
「い、いや!? す、すまない!? そ、それは待ってもらえないだろうか!?」
そう叫んだアルティス侯爵令息はそのまま必死に……「なぜイザベル・イスカナルが有罪なのか」を、聞いてもいないのに語り始めた。
本当にあり得ない。これで生徒会役員だというのはどうなのだろうか? 身分だけで決めているのでは?
そこから昼休みの間ずっと、さらには午後の講義の時間まで私はアルティス侯爵令息の長い話を聞かされた。可能であるのなら扇で刺したい。
許せない。無駄に時間を奪われたことはもちろんだけれど、何よりも私の憧れであるイザベル・イスカナル侯爵令嬢を冤罪によって婚約破棄しようとしていると分かったのだ。
この男の存在自体を消してやりたいと思っても無理はない。もはやそれは私の権利に違いない。
結局のところ、彼が私の貴重な時間を奪ってまで語った内容は「自分は浮気をしたが、それは婚約者が悪役だったからであり、自分は清らかな真実の愛に目覚めただけなのだ」という、厚顔無恥な自己弁護でしかなかった。浮気など絶対に許さん。
いや、婚約破棄した方がイザベル様のためなのでは……? 早く婚約破棄すればいいのに……。
政略で決められた婚約者だから気に食わなかっただと!?
あんなにも可憐なお方に無礼千万である!?
ほんの少しだけつり目がちなだけで!? 性格まで勝手に悪いと決めつけるなんて!?
許さん!?
生徒会で出会った特待生は純真無垢で癒された?
ふざけるのも大概にしてほしい。
貴族社会には絶対に必要な言質を取らせない言動というものが、平民社会ではそこまで必要ではないというだけでしかない。
平民であるから思ったことを口にしても大した責任を負わずに済むというだけのこと。
はっきり言っておきたい。
浮気男は死すべし。
私は自分の家が子爵位であり、彼の家よりも爵位で劣るということを踏まえて、心を落ち着けつつ静かに口を開いた。心が落ち着くことはなかったけれど。
「……お話は、それで全部でしょうか?」
「あ、ああ。分かってくれたか、サルモン子爵令嬢。私の苦悩を……」
「いいえ、微塵も。むしろ呆れて言葉も出ません。強く意識しなければ身分差があるにもかかわらず暴言を口にしてしまいそうです」
冷静すぎて無感情な上に氷のような冷たさを持った私の声に、リュカ・アルティス侯爵令息はたじろいだ。実際に二、三歩は私から距離を取った。
「まず、虐め? 嫌がらせ? その証拠についてです。アルティス侯爵令息からお聞きした内容では全て証言のみ、それも特待生のリエナラ様のお言葉だけではございませんか?」
「それは……だが、あのリエナラが嘘を言うなどと……」
「そこはどうでもいいのです」
「ど、どうでもいいなどと……? リエナラは……」
「どうでもいいのです。そもそも一方の証言のみで判断している時点で、話にならないと考えますが?」
私は彼が意味のない言葉で積み上げた「砂の城」を、論理という名の鉄槌で一つずつ粉砕していった。そうでもしないとストレスで殴ってしまいそうだったし。
彼の言動がただの浮気であること、無実の婚約者に冤罪を被せようとした卑劣な行為であること。
そして何より、侯爵家の人間として、証拠もなしに一方的な婚約破棄を叫ぶことがどれほど家に泥を塗る行為であるかを。
丁寧ではあるものの、ひたすら冷たく平坦な口調で続けられる毒に、リュカ・アルティス侯爵令息は完全に沈黙した。
「そもそもイザベル・イスカナル侯爵令嬢のあの美しいお姿を覚えられないほど、婚約者としてまともに交流してこなかったのはどちらなのか、というお話です。現状では婚約破棄で有責となるのはアルティス侯爵令息の方ではありませんか? 私、アルティス侯爵令息が婚約者であるイスカナル侯爵令嬢と私を見間違えたとはっきり証言しても構いませんが? 髪どめのひとつでも自分の手で贈っていれば見間違うことなどありえないでしょうに」
「……」
「お二人の婚約について私が何かを言うべきではないとは思います。ですが……まずはイザベル・イスカナル侯爵令嬢との婚約について両家での話し合いが必要なのではありませんか?」
私が勝手に婚約破棄することなどできない。
できればこんな男との婚約は破棄してイザベル・イスカナル侯爵令嬢にはもっとよい方と結ばれてほしいとは思うけれど。
……どうかイザベル・イスカナル侯爵令嬢が幸せになれますように。そして、この浮気男は不幸のどん底の奥底に堕ちますように。
私は最後にそう強く願ってから、ベンチを立って歩き去った。
思い返してみるとずっと侯爵令息を立たせたままだったけれど、まあいいだろう。どうせ浮気男だ。死すべし。
浮気男は青ざめ、ベンチの前に力なく崩れ落ちて膝をついた。
一応、丁寧な言葉遣いは崩さなかったし、問題があるのは浮気男の方なので私は悪くないはず。あんな浮気男はそのまま中庭に膝から埋もれてしまえばいい。
数日後、またしても私はアルティス侯爵令息と中庭で顔を合わせた。
アルティス侯爵令息はサンドイッチを食べる私の隣になぜか腰かけてきたのだ。意味が分からない。
しかも、ここで私の予想を裏切る事態が起きた。彼は震える手で私の手を取ろうとしたのである。即座に私は手を動かして事なきを得たが……。
侯爵令息の視線は熱に浮かされたようで、あまりにも気持ちが悪い。
「……ああ、セシリア。君は……君こそが、真実だ。今まで誰も私をこれほど厳しく導いてはくれなかった。セシリアが私を救ってくれた! 私の過ちを正してくれる、セシリアのような知性こそが、私の求めていた真の光だ!」
「……は? とりあえず名前で呼ぶのはやめて頂けません?」
……気持ち悪いので、と続けそうになって私は慌てて口を閉じる。
「いや、もうサルモン子爵家には婚約を打診している! 遠慮なく君の名を叫びたい! ああ、愛している、セシリア! 君こそが私の運命だ!」
本当に意味が分からない。
イザベル・イスカナル侯爵令嬢との婚約はいったいどうなったのだろうか?
また浮気をしようとしている? しかも、私を相手に?
「……イスカナル侯爵令嬢は……」
「彼女との婚約は解消したよ! ちゃんと話し合って!」
私の言葉を遮るように叫ぶアルティス侯爵令息。
それってただの傷物宣言なのでは?
あんなに素晴らしいご令嬢との婚約を破棄したとか?
生徒会役員たちが特待生にふらふらしていたことは学園でも有名な話でもあったらしいし。馬鹿なの?
アルティス侯爵令息が私の手を取ろうとしてくる。
私は迷わず、ベンチを立って彼から距離を取った。
「……私の父からは何も聞いていませんが?」
「婚約解消からすぐに打診という訳にもいかないだろう? だから婚約解消から三日も待って昨日、打診の手紙を送ったのだ!」
三日でも十分に頭がおかしい。
すぐ、とはいったい、どのくらいの期間のことを意味しているのだろうか?
あと……アルティス侯爵家はそんなので本当に大丈夫なのか? これを許してもいいのかしら?
家に帰ったらすぐ父に確認して、そのままお断わりを入れてもらおう。
理由は畏れ多いからとかでいいだろうし、必要なら浮気男に関して私が知っていることを全て侯爵家に伝えてもいいだろう。
前はうっかりしていたけれど、この前の昼休みの話も含めて、やはり抗議を入れた方がいいだろう。
婚約者を見間違えるような方はちょっと、と申し上げたらすぐに理解して頂けるに違いない。
場合によってはどこかの商家か男爵家などで私の相手を見つけてもらってもいい。
この浮気男だけはない。あり得ない。
「大変申し訳ありませんけれど、お断りさせて頂きます」
「な、なぜだ!?」
「不敬な発言をしたくないので、理由は言えません」
「いや、セシリアの言葉を不敬などと言うはずがない! 遠慮なく理由を言ってほしい!」
よし。言質は取った。
それなら、と私は背筋を伸ばす。
「では、申し上げます。そもそも婚約者を裏切るような方の言葉に、何の価値があるとお思いですか? 私はアルティス侯爵令息のことを、人としても異性としても、心の底から軽蔑しております。虫酸が走る、と言えば理解していただけますか?」
「そ、そんな……! 私は反省したんだ。心を入れ替えた。セシリアに相応しい男になるから、どうか信じてほしい! セシリアの言葉で! 私は本当に反省したし、目覚めたんだよ! 真実の愛に!」
「……とても自分勝手な愛ですね。その自分勝手さでは、アルティス侯爵令息はきっとまた浮気をなさるのでは? 私、貴方に優しくするつもりもありませんし、関わりたいとも思えませんもの」
心の底から嫌だと思う。
可能なら今すぐ消えてほしいくらいである。
「二度と浮気などしないと誓おう! だから……」
「二度と私の視界に入らないでください。それが唯一、貴方にできる『反省』です」
アルティス侯爵令息は必死に食い下がったが、私はその言葉を遮って冷たくそう言い放つと一瞥もくれずにその場を立ち去った。
さて、そこから私はしばらくの間、アルティス侯爵令息に絡まれるようになった。
アルティス侯爵令息は、滑稽なほど「誠実な男」を演じようとしていた。
毎日、私に謝罪と愛を伝えるために付きまとい、「私は変わった」「君だけを見ているし、愛している」などと繰り返した。
周囲にはあれほど愛されているのならいいのでは、などという方もいたけれど。
そういった方との友情は残念ながらとても薄くなっている。
私は一度としてアルティス侯爵令息と目を合わせなかった。
彼が廊下で声をかけてきても、まるで石像でもそこにあるかのように無視し、図書室で隣に座ろうとすれば、即座に席を立って退室した。
私にとって、彼は「ただの浮気男」であり、ただ私の平穏を乱す「騒音」でしかなかったからだ。
そうした日々が一ヶ月と少し過ぎた頃、リュカ・アルティス侯爵令息の「誠実なポーズ」に限界が訪れた。
彼は自分を正してくれる私に憧れたはずだったが、その実、彼は「自分を肯定してくれる存在」なしには生きていけない空虚な人間だったのだ。
私の徹底した無視と軽蔑、そして婚約解消の経緯を知る方々からの学園内での冷ややかな視線に、彼の脆弱な精神は耐えられなかった。
「……セシリアが、あんなに冷たいのが悪いんだ」
アルティス侯爵令息はそう零すようになったという。
そして彼は、私の正論という名の寒風から逃れるように、一人の女性のもとへ近づくようになった。
その女性は、特待生のリエナラでも、かつての婚約者のイザベル・イスカナル侯爵令嬢でもない。
それは彼の不誠実さも問わず、ただ甘い言葉を注いでくれる、彼にとって都合のいい女性だった。
「貴方はちっとも悪くないわ。あの女が冷たすぎるだけよ」
そう囁いてくれる女性の前で、彼はかつての「反省」など、泥の中に捨て去った。
結局、彼の真実の愛など、どこにも存在していないのだろう。
アルティス侯爵家へのお断わりの手紙には私が知る事実を書き添えておいた。もちろん今の学園での様子も含めて。
こうして、ようやく私の学園生活にも平穏が戻った。
遠くで誰かの没落を告げる鐘の音が聞こえたような気がしたが、私は一度も顔を上げることなく、美味しいサンドイッチを最後の一切れまで口に運ぶのだった。




