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令和3年7月4日(日)「新たな一歩」土方なつめ

 朝はかなり強い雨が降っていたので走りに行くのは止めた。

 今日は仕事が休みだ。

 雨音を聞きながらウトウトと二度寝する。

 睡魔の取り憑かれていた私はチャイムの音で飛び起きた。


「おはよう」とドアを開けると、可愛いニットに身を包んだマイハニー、もとい藤間とうまララちゃんが爽やかな笑顔でそこに立っていた。


「おはようございます」


 花も恥じらう女子大生。

 弾んだ声で挨拶した彼女は大きめのバスケットとともに慣れた感じで私の部屋に入ってきた。

 私が慌てて顔を洗っている間に、彼女は朝食の支度をしてくれる。

 Tシャツにスウェットという寝起きのままの姿を私は反省するが、いつものことなので彼女は気にも留めていないようだ。


「せっかくお休みが一緒になったのに、ごめんね」


「気にしなくていいよ」と答えた私は何か言葉を付け足そうと思うものの何も浮かばずに口を閉じた。


 日曜日の今日、彼女は大学の友だちと遊びに行くそうだ。

 都内で何かのイベントがあり、新しくできた友だちに強く誘われたと言っていた。

 大学でもそういう女子のグループってあるんだと思いながら私は彼女の話を聞いた。


「通常なら大学はもう夏休みって感じなんですけど、オンライン授業が多かったせいで補講がたくさんあるんですよ」


 朝食を摂りながら今後の予定について彼女は語る。

 お盆の時期には帰省するものの、それ以外はアルバイトを頑張りたいとおっとりした口調で話してくれた。


「どんなアルバイトが良いでしょう? 社会人のなつめさんからお勧めとかってありますか?」


「社会人って言ってもまだ3ヶ月だし、ほとんどリモートワークだし、社会人らしいこと全然してないよ。昨日も代表からもうしばらくそれでって言われたし」


 ほかのメンバーは現場の仕事が増えているが、私はオンラインの担当のままだ。

 それが必要な仕事だと分かってはいるが、選手経験のある私は実際に現役の選手たちと接したり、サポートといった形で大会に関わったりしたい。

 いまはオリンピックパラリンピックが近づいていて、もっと裏方の仕事がメインということで経験の乏しい私にはお鉢が回ってこないようだ。


「でも、わたしよりずっとしっかりしていますし、すごく頼りになりますよ」


 彼女は自分の胸元で手を合わせて信頼を寄せてくれる。

 私は嬉しいような面はゆいような気持ちでそれを受け止める。

 東京に出て来たのは同じ時期だし、アルバイト経験がろくにないのは彼女と一緒だ。

 それでもこう言われたら力になりたいと思う。


「知り合いに聞いてみるよ」と私は答えた。


「お願いします」と微笑んだ彼女から希望の条件を聞き出しメモに取る。


 朝食を終えると手際よく片付けを済ませて彼女は自分の部屋に戻って行った。

 雨はやや小降りになっている。

 私は窓から外を眺めていた。

 やがて眼下に傘を差して軽やかな足取りで歩く藤間さんの姿が見えた。

 ひとりぼっちの部屋に深い深いため息の音が広がった。


「……出掛けるか」と私は呟く。


 昨夜、私が勤めるNPO法人の代表とビデオチャットで話をした。

 私より3歳若い高校1年生だが、とてもそうは見えない。

 職場の――といってもオンラインでのやり取りばかりだが――先輩との会話でも必ずといっていいほどその話題が出た。

 20代後半の先輩ですら自分より歳上に見えると言うくらいだ。

 年功序列かつ男尊女卑的な雰囲気が色濃く残るスポーツ界で活躍するにはあれくらいの貫禄が必要なのだろうということで意見がまとまるが、私も速くあれくらいの貫禄を身につけたいものだ。


『すでにお伝えしたように、夏休みは9月に取っていただくようお願いします。代わりに十分まとまった連休になるよう調整いたします。ご理解ください』


 夏休みは学生スポーツにとってもっとも盛況な時期だ。

 私はウインタースポーツだったので練習に励む期間だったが、学生競技の多くが夏休み中に全国大会を開いている。

 女子の学生アスリート支援をメインとするNPOなのでもっとも多忙な時期となる。

 それは入った時から理解していたので夏休みの時期がずれることは納得できることだった。

 まして今年はオリンピックパラリンピックがある。

 熱い夏になるんじゃないかとむしろワクワクしていたくらいだ。


『それは構わないです。どっちかって言えば普通に働きたいですし、休みはなくても……』


『それは駄目です。福利厚生が万全とは言いませんが、我々自身が心身ともに健康でないと優れたサポートは行うことができません。しっかり休むことも仕事の一部です』


 代表はそう話すが、テレワークではあまり働いている気がしない。

 身体を動かさないので充実感に乏しいのだ。


『仕事以外の時間を充実させることは社会人にとってとても大事なことですよ。勉強をしてスキルを身につけたり、身体を鍛えて健康を維持したり、趣味を持って世界を広げたり、人間関係を充実させて人生を豊かにしたりと。それぞれに目標を持ち、計画的に取り組んでいけばいいんじゃないですか?』


 女子高生である代表は学生の本分である勉学以外にもトレーニング理論の研究を行ったり、全国大会出場レベルの空手の稽古を重ねたり、読書を楽しんだり、友だちと密な関係を築いたりしているそうだ。

 私はつい少し前まで学生だった訳だが、クロスカントリースキーに打ち込み、仲間たちと厚い友情を交わしていた。

 本分の勉強はおざなりで、とてもバランスの取れた学生生活とは言えなかっただろう。


 私はこのアドバイスに従ってフィットネスクラブに入会しようと考えた。

 身体を鍛えることと趣味の両方をこれで一度に解消できる。

 トレーニングはジョギングや筋トレは行っていたが、本格的なものではないので最近は不完全燃焼という感じがしていた。

 東京でクロスカントリースキーを行うのは無理だろうから、ほかの種目のスポーツに触れる機会があればと思う。

 さらにそこで友人が作れれば一挙に3つの課題を達成できる。


 藤間さんとの仲を深めたいという想いはある。

 しかし、お互いの住む世界は違う。

 彼女には彼女の生活があり、私には私の生活がある。

 学生の頃ならそんなことを考えなくても済んだが、社会人になったいまどんな相手とも24時間ベッタリということは不可能だ。


 私は着替えを済ませる。

 とは言っても、見た目はたいして変わらない。

 スポーツウェアに身を包むと、部屋を出た。


 小雨が降っていたが傘は差さない。

 少し肌寒いが歩いているうちに気にならなくなった。

 私は顔を上げる。

 まだ都会には慣れていないが、そのうち慣れるだろう。

 グダグダ考えても仕方がない。

 いまは一歩を踏み出すだけ。

 その先に何があるのか。

 分からないから私たちは前に進むしかないのだ。




††††† 登場人物紹介 †††††


土方なつめ・・・高卒社会人1年目。都議選があり初めての選挙だと意気込んだが、告示日までに住民票を移してから3ヶ月が経過していなかったため今回は選挙権がなかった。


藤間とうまララ・・・大学1年生。高校時代は勉強に明け暮れほとんど遊んでいなかった。都会に出て、緊急事態宣言下の引き籠もり生活から解放され、友人たちとの刺激的な体験にすっかり心を奪われている。


日野可恋・・・高校1年生。NPO法人F-SAS共同代表。女子学生アスリートの支援を目的とし、トレーニング動画の公開、競技・健康・生活・法律などの各種相談や情報提供を行っている。学校や大会に出向いての普及活動やセミナーの開催も業務内容の一部だが感染対策を考慮して自粛中。

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