令和3年7月24日(土)「勝利を目指して」小谷埜はじめ
世間はオリンピック一色に染まっているようだ。
だが、そこに出場できる一握りの選手以外にとっては目の前の大会こそがすべてだ。
夏はもっともスポーツ大会が開かれる季節であり、わたしもそこに照準を絞っていた。
「はじめちゃん、頑張って!」
彼方の声援を背に受ける。
わたしは片手を挙げて応えると、気合を入れて試合場に足を踏み入れる。
今日はフルコンタクト空手の大会が開催されている。
そこに出場するわたしの目標はもちろん優勝だ。
彼方は出場を見送った。
彼女は最近空手の”形”に力を入れている。
組み手一筋のわたしとは別の道を歩もうとしている。
彼女と知り合って以降はずっと一緒に出場していたので寂しい気持ちもある。
一方で、こうして応援をしてもらえることにありがたさを感じていた。
「はじめ!」という審判の声とともに試合が始まる。
緻密な作戦を練りそれを頭の中に叩き込んで来たのに、始まりの合図を聞いた途端にそれが消し飛ぶ。
毎回作戦とは何だったのかと反省するが、改善される気配は一向にない。
いまもいつも通りの”攻めて攻めて攻めまくる”空手となってしまっている。
駆け引きも何もあったものではない。
相手に息を吐かせぬほど手数を繰り出して一気に畳み掛ける。
たいていの相手は防戦一方となりわたしの息切れを待つが、その前に仕留めてしまうのだ。
空手の腕よりも体力勝負といった、褒められたものではない戦法と言えるだろう。
「よしっ!」
見事に相手を圧倒して勝利を手にした。
わたしは右手の拳を強く握って凱歌を挙げる。
フルコンタクト空手の競技人口はそう多くない。
大会は年代別になっている。
女子高生の選手なんて本当に数えるほどだ。
こんな小さな関東大会で優勝したところで箔がつく訳ではないが、それでもいまのわたしにとって結果を出すことは大切だった。
彼方だけでなくキャシーや日野さんといった実力者と相まみえ、自分の力不足に焦る気持ちがある。
美空ちゃんのようにわたしを慕ってくれる後輩もできたので、胸を張れる結果が欲しい。
戻って来たわたしに彼方がタオルを渡してくれた。
フェイスガードを外す。
溜まっていた熱が一気に発散された。
たぶん頭から湯気が立っていることだろう。
わたしは汗を拭う。
あと2つ勝てば優勝だと皮算用をしていると、試合場の方に目を向けていた彼方が「あの人、強そう」と囁いた。
わたしもそちらに視線を送る。
ちょうど次の試合が始まるところだ。
この勝者がわたしの次の対戦相手となる。
ふたりともフェイスガードをつけているので顔は分からない。
聞いたことのない名前同士だったので警戒していなかった。
勝負はあっけなくついた。
開始すぐ、強烈な蹴りからの連続攻撃が決まったのだ。
負けた選手はしゃがみ込んだまま立ち上がれない。
スタッフが駆け寄り、担架が運び込まれようとしていた。
勝った選手は悠然と立ったままそれを眺めている。
敗者が担架に担がれて運び出されてから勝利を告げるアナウンスが行われた。
ひとり残された側はそれを聞いて試合場を降りた。
フェイスガードを外す。
明るい色の髪が背中までバサリと落ちた。
「メイク、バッチリじゃん」
その顔にはちょっときつめのメイクが施されていた。
チークにアイシャドウ、そして真っ赤なリップ。
汗をかく暇もない戦い振りにメイクはまったく崩れていない。
わたしの睨みつける視線に気づいたのか一瞬こちらに顔を向けたが、すぐに彼女は背を向けて控室の方へ去って行った。
「はじめちゃん」
彼方に名前を呼ばれて我に返る。
むかついている場合ではない。
対策が必要だ。
「大丈夫?」と心配そうに彼方から問われ、わたしは右手の拳を左手の掌に打ちつける。
「勝つしかないじゃん」と不敵に微笑み、余裕を見せた。
あの蹴りは脅威だ。
だが、分かっていれば食らうことはない……はずだ。
むしろあの蹴りを誘発させてカウンターを狙うのも……。
「さっきの蹴りは打たせない方が良いよ」
わたしの考えを見透かすように彼方が忠告する。
その目は真剣で、わたしは気圧されて「そうだね」と答えてしまう。
作戦を練ったところで本番では使えない。
彼方じゃあるまいし紙一重で躱すなんて芸当はできないのだから、彼女が言うように打たせないよう頑張るしかないのだろう。
とにかく、いまの試合のように瞬殺されてはどうしようもない。
各カテゴリーの試合が次々と行われていく。
わたしは壁にもたれて集中力を高めていた。
間もなく試合というところで、軽くウォーミングアップを行う。
戦いの場に向かおうとするわたしに彼方は手を伸ばした。
彼女の拳にわたしは自分の拳を合わせ、想いを受け取った気分で歩を進めた。
これでもわたしは全中経験者だ。
あんなメイク女に負ける訳にはいかない。
空手を舐めるな。
沸々と闘志がわき上がる。
正面に立つ対戦相手の表情は見えない。
目を合わせようとしないので、わたしのことなんて眼中にないのだろう。
相手は女子の平均身長より少し高いくらいか。
わたしより大柄なことは間違いない。
彼方と稽古を繰り返してきたので、このくらいなら不利なら気にするほどではない。
「はじめ!」
自分の名前と同じ開始の合図で、わたしはアドレナリンが全開になる。
相手を恐れていた気持ちはどこかに吹き飛び、いつものようにリスクを背負って攻撃を仕掛けていく。
ガードごとぶちのめす。
フルスロットルでわたしは拳や蹴りを繰り出した。
彼方からアドバイスを受けて磨いて来たのが攻撃のバリエーションだ。
単調な攻撃は簡単に反撃を許してしまう。
攻め一本でも相手の予測を外しリズムを変えていくことで隙を与えない戦い方を身につけた。
誰にでも通用するという訳ではないが、いまはこれに頼るしかない。
相手は攻めに出られず、受けに回っている。
受けにもいろいろやり方はあるが、対戦相手はあまり得意ではないようだ。
反撃のための受けではなく、ただ防戦一方になっている。
このまま押し切りたい。
とはいえ完全に守りに入った相手を倒し切るのはなかなか困難だ。
試合時間は短いが、その間ずっと攻撃していられる訳ではない。
息が続かない。
体力が持たない。
威力のある攻撃をしなければ反撃の余地を与えるが、そうしているとこちらの体力も削り取られていく。
呼吸を整えていたら、みすみす逆転を許してしまうだろう。
かと言って、息が乱れれば力が出せない。
さらに息が上がれば動きは止まってしまう。
攻勢を掛けているとはいえギリギリの状態だ。
相手も反撃の機会をうかがっていることは間違いない。
どちらが追い詰められているのか。
わたしは最後の力を振り絞った。
もう相手を仕留められるほどのパワーも切れも残っていない。
きっと相手もそれに気づいているだろう。
時計を見る余裕はない。
周囲の音も聞こえない。
わずかに残っている集中力はすべて目の前の相手につぎ込むしかない。
肺の中は空っぽで、頭もクラクラする。
それでも。
それでも、わたしの身体は動いてくれた。
前に、前にと攻め立てる。
しかし、恐れていた時が来た。
ついに、彼女の反撃が襲ってきた。
ハイキック一閃。
鋭い踏み込みからの蹴りは来るのが分かっていてももう防ぐ余力がなかった。
負けを確信し、わたしは受け身を取ることしかできなかった。
「……済みませんでした」
蚊の鳴くような声でメイク女が頭を下げる。
遠目にはふてぶてしく見えた顔だが、この近さだと強張っているのが分かった。
メイクの下の表情はいまにも泣き出しそうだ。
「たいした怪我じゃないから大丈夫だよ」
そう答えたのはわたしではなく彼方だ。
座り込んでいるわたしは疲労困憊で口がきけなかった。
試合はわたしの勝利に終わった。
あの蹴りが決まる前にタイムアップとなったのだ。
優勢勝ちとなりわたしは決勝に駒を進めた。
この状態で万全に戦えるかどうかは怪しいが、少しでも身体を休めておきたいところだ。
そんなわたしのことよりも彼方はこの対戦相手が気になるようで、「空手の経験は?」だとか「どんな稽古をしているの?」だとか質問攻めにしている。
聞かれた側は小さい声でボソボソ答えているが、荒い息をしているわたしの耳までは届かない。
「鎌倉の高校なんだー」という彼方の声を聞きながらわたしは天井を見上げた。
あと1勝。
ここまで来たら是が非でも優勝したい。
わたしが力をつければ、彼方も道場の移籍を考え直すかもしれない。
「彼女の友だちが来ているんだって。挨拶してくるね」とわたしの気持ちなんて全然分かっていない彼方が明るい声でそう言った。
彼女にとってはこんな大会での優勝なんかたいした意味はないのだろう。
わたしは返事をする代わりに片手を挙げた。
この世界、強さがすべてだ。
強い者の言葉しか耳を貸してもらえない。
そのための一歩とするために、わたしは勝たなければならないのだ。
††††† 登場人物紹介 †††††
小谷埜はじめ・・・高校2年生。フルコンタクト空手・組み手の選手。都内の高校に通っている。中学までは伝統派空手で全中にも出場経験がある。なお、この大会は無事に優勝を果たした。
大島彼方・・・高校2年生。小笠原出身で高校から区部で暮らすようになった。はじめとは別の高校だが同じ道場に所属している。しかし、最近組み手ではなく形に転向することを考えていて、それに伴い道場の移籍も検討している。
保科美空・・・中学2年生。神奈川の伝統派空手の道場に通っている組み手の選手。時々稽古に訪れるはじめのことを慕っている。




