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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
92/152

92.解放

 5本目のワインを空ける頃、アクセルのまぶたが時折落ちたままになるのを見て、リンは胸をなで下ろした。いくら精神的にまいっているからと言って、このまま恋人が急性アルコール中毒で倒れるのを黙って見ているわけにはいかない。

 静かに向き合い、アクセルがワインを暴飲するのを黙って見守っていたリンだったが、実は内心、喧嘩してでも止めるべきだろうかと、随分と葛藤していたのである。

 だから、とうとうアクセルが舟を漕ぎだしたのを潮に、リンはアクセルを立たせ、そっとベッドへと誘導した。ベッドに倒れ込み、寝苦しそうに胸元を気にするアクセルからジャケットを脱がせ、胸をくつろげた。同時にベルトを抜き取り、ウェストを楽にしてやる。デュベタイプのカンファターを引き上げてやると、アクセルがぼんやりと目を開けた。


「……リン?リン・バクスター?」


「ええ、閣下」


目の前にいるリンが本物のリンなのか、確信が持てないかのように、不安そうにそう呟くアクセルの様子に、まるで子供のようだ、とリンは思った。


「さ、眠って?アクセル。側にいるから」


リンは優しく言った。


「キスしてくれないか……?」


「いいですよ」


リンはそっとアクセルの額に唇を押しつけた。


「リン……リン、ミリアムは大丈夫……だろうか?」


看病するかのように枕元に座ったリンを見上げてアクセルが言った。


「ええ、きっと大丈夫。神様が助けてくださいますよ」


気休め程度の事しか言えない自分に歯がゆさを感じながらもリンはやっとそこまで言って、不思議な色合いをした、サンディブロンドの前髪をかき上げて、手櫛で梳いた。それは信じられないくらい柔らかく滑らかで、リンはうっとりとしながら、繰り返し繰り返しアクセルの頭を撫でながら髪の中に手を差し入れて梳いてやった。

 アクセルの目から、ポロリと涙がこぼれた。それを見たリンの胸の中に、強い愛情がこみ上げた。


「大丈夫よ、アクセル。ミリアムは強い子、生命力に溢れた子よ。大丈夫だから、ね?」


リンはベッドサイドに跪くと、アクセルの目尻にキスをして涙を吸い取りながら、続けた。


「リン……」


アクセルの腕がリンの身体にまわされた。リンもまた、アクセルの頭を両腕で抱き込むと、その顔と頭にキスの雨を降らせた。


「リン……リン……!」


気がつくと、身体の位置が入れ替わっていた。さっきまでアクセルが寝ていたベッドに横になった状態で、リンはアクセルの瞳を見上げた。


「リン、お願いだ。今夜は一緒にいて欲しい。頼む、イエスと言ってくれ」


アクセルの熱っぽく潤んだ瞳の中に、紛れもない渇望を見て、リンは唐突に悟った。アクセルは自分を欲しがっている。この辛い夜を乗り切る為に、ミリアムの生還を信じる為に。暖かい誰かの肌に触れながら眠りに落ちたがっている。

 本当ならば、断るべきだとリンの中の理性的なもう一人のリンが呟く。しかし、リンにはわかっていた。リン自身もそうなることを望んでいることを。アクセルの全てを受け入れ、そして、抱きしめたい。アクセルを包み込み、その苦しみを和らげてあげたい!リンの中に初めて感じる、強い衝動がわき起こった。

 それはとてつもなく大きな嵐のように、リンの全てを巻き込み、最後までそうすることに反対していた理性的で臆病なリンを、ものすごい力で押し流してしまったのだった。

 その時、リンは初めて、自分が只の『容れ物』であることに気が付いた。リンの肉体は正真正銘、アクセルの為の容器であった。そして今、リンの自我とピッタリと重なるようにして、全知全能の存在が宿り、満たしているのを感じたのだった。

 それは、いまだかつて無い興奮と高揚感、全能感でもって、リンの全てを満たした。今、この瞬間、リンは無敵になった自分を感じた。今から自分がしようとしていること、アクセルを包み、受け入れること、それが間違いなく、正しいことであると、百パーセントの確信を持って"わかった"のである。


(愛の下に、今私の進もうとしている道は、(まった)き正しさに満ちた道程だ。閣下(アクセル)を限りなく受け入れる存在になる。そうして、私は、生まれて初めて、完全な存在として肉体(かたち)の価値を得ることができるだろう。

 今、私はこのために生まれてきたと確信できる。今までの人生の全ては、このためにあった!)


それは天からの啓示のようにリンの中に降りてきた。身体中に光と暖かいエネルギーのようなものが充ち満ちて、あまりの感動と畏れに、リンは震えた。


「ああ!!」


リンがそう叫んで抱きつくと、アクセルは無我夢中でリンの唇を貪った。

 それは、まるで果てしない、スカイダイビングのようなキスだった。二人が触れ合ったその瞬間に落下し始めたアクセルは、ひたすらにリンの中に落下していく自分を感じた。

 そこは深く、果てしなく真っ暗で、それでいて何とも言えない気持ちの良い暖かさに満ちていた。そんな安らぎの闇の中に吸い込まれるように落下しながら、アクセルは泣いた。

 アクセルはリンの深い愛を感じた。リンは限りない暖かさと柔らかさで、アクセルを包み、ありとあらゆる恐怖はとりのぞかれ、その闇に溶け出して消えていった。リンの中は果てしなく深く、アクセルが苦しさのあまり吐き出した恐れも哀しみも痛みも、悔いも羞恥も、そうした全てのネガティブな感情の全てを受け止め、吸い取り、取り除いてくれた。

 アクセルは嗚咽と共に、リンの身体に縋り付いた。二人は抱き合い、互いを与えあった。そして、いつしかまるで暴風雨のような激しい恍惚の中に互いの全てを、感情を解き放った。

 それは『愛』としか表現のしようがない感情だった。それは光であり、闇であり、無であり、全てだった。生命ばかりではない、全ての物質が生まれ出た宇宙の原始(ビッグバン)にも似た、歓喜とエネルギーの爆発だった。

 その爆発の中で、全てを吐き出して空っぽになったアクセルはただ為す術もなく錐もみにされ、翻弄され、洗い上げられるのを感じた。

 それは崩壊と再構成のプロセスのように感じられた。

 身体の輪郭を含む、肉体の全てが粉々に崩れ去り、太古の海の『生命のスープ』ともいえる海水のような限りなく温かな液体の中で再び寄り集まって、新たな肉体が与えられたような気がしたのである。 アクセルの古い全てがリンの与えてくれた『完全な無』にとけこみ、そして瞬時に再生した。アクセルはそんな風に感じた。

 やがてそんな光と嵐がおさまると、リンは凪の海に変化した。アクセルはまるで赤子がゆりかごの中で揺らされるように、そこにたゆたう、無力な、しかしそれでいて完全な自分になったような気がした。


(……あたたかい……)


ポカポカとした春の日射しに似た、何とも言えない心地よい温かさを感じて、アクセルは微睡んだ。

 生まれ変わったアクセルの身体からは、全ての緊張と強ばり、その原因である恐怖といった、すべての負の要素が綺麗サッパリ払拭されて消えてしまっているのを感じた。

 アクセルは、自分が『解放』されたことを悟った。リンが『解放』したのだ。

 アクセルは自由だった。いまだかつて無い(まった)き自由を得て、完全なる自分を『取り戻した』のである。


*-*-*-*-*


 明け方近く、カーテンの隙間から漏れる、青い光に照らされたリンのあどけない顔を眺めて、アクセルは泣いた。

 腕の中でぐったりと眠る、桃色の頬をした小柄な身体をそっと胸に抱いて、キスをすることもできずに、ただボタボタと涙をこぼした。

 リンの健やかな寝息に、暖かく信じられないくらい柔らかい小さな身体に、アクセルは無限の優しさを感じ取り、益々涙が止まらなくなった。

 両親を亡くして以来、こんなに泣いたのは初めてだ、というくらいアクセルの涙は止めどなく湧き出して。やがてリンのぬくもりの上に降りかかり、やがて丸い水滴となって流れ星のように消えていきーー。

 アクセルはリンを抱きしめたまま、再びの眠りに落ちていった。深い深い眠りだった。


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