91.酔えない酒
慣れない手つきでワインオープナーと悪戦苦闘しているリンをやんわりと押しのけると、アクセルは驚くほどの手際良さであっという間に栓を開けた。ルームサービスのワゴンの上に乗っている、クリスタルのワイングラスを手に取り、まるで安酒のように無造作に注ぎ入れると、たちまち周囲に深いアロマが立ち上がった。乱暴なほど勢いよく注いだせいで、よく空気に触れたワインの醸し出す上質な芳香がアクセルに次なる1杯を急がせる。そうこうするうちに、唖然としているリンの目の前で、あっという間に1瓶のワインボトルが空になってしまった!
「閣下!いくらなんでも早すぎです!」
慌てて止めようとして、リンは縋るようにアクセルの腕を掴んだ。
「……」
二人の視線が交差する。
その瞬間、アクセルを諫めようとしてリンの吸い込んだ息は、あっという間に喉の奥へと消えてしまった。なぜなら、こんなに沢山のアルコールをしかも急激に摂取してもなお、アクセルの濃灰色の瞳には、酔いの「よ」の字も見えず、変わりに苦悩の色がありありと浮かんでいたからだった。リンの心がズキリと痛んだ。
一方、黙り込んでしまったリンを尻目に、アクセルは今度は自らの手でワインセラーから2本目のワインを取り出して開栓し、今度はリンの分もワインを注いで差し出してきた。
「私は……」
結構です、と言おうとしてやんわりとそのグラスを押しかえそうとしたリンに向かって、
「…少しで良いからつき合ってくれないか?」
とアクセルは言った。その懇願を滲ませた潤んだ瞳を見てしまっては、アクセルのことを愛しているリンは、どうにも断ることなど出来そうになかった。
(閣下は泣きたいのかもしれない)
グラスを受け取りながら、リンは思った。
(でも……)
リンの内なる『冷静な内科医』が空きっ腹にアルコールを大量に摂取しているアクセルの内臓をひどく危ぶんでいるのと同時に、『慈愛に満ちた精神科医』が、アクセルの気持ちに寄り添い、その辛さを肩代わりしたい、と欲しているのを感じる。
「……いただきます」
そう言って、結局はワイングラスを受け取り、リンはそっと口をつけた。途端に口の中いっぱいに芳醇な薫りが広がる。
(これ、すごく上等なワインだわ……)
あまりの美味しさに驚いて、思わず、もう一口、もう一口と口にしているうちに、気がつけばほとんど全部、飲んでしまった。
一方、アクセルの方はといえば、リンがそんなふうに味わって飲んでいる間に、相変わらずがぶがぶと飲み続け、あっという間に2瓶目を空にしてしまっていた。
「閣下、次はこちらを」
慌ててリンが差し出したクラブハウスサンドイッチの皿を興味無さ気に眺めたアクセルだったが、リンの優しげでいて一歩も引かない構えでいる声音に、ようやく1切れだけ口にした。そして、抗議しそうに口を開けたり閉めたりしているリンに気付かない振りをして立ち上がり、さっさと3本目のワインを取り出して封を切ると、相変わらずのがぶ飲みで、杯を重ねるのだった。
と、思いだしたように目の前に置かれたクラムチャウダーのボウルをリンの方に押しやった。
「これは君が食べたまえ、リン」
どうやらアクセルはリンがすでに自分のスープボウルを空にしていることに気付いていないようである。本当にすぐ目の前で『美味しい』と言いながら食べていたのに。
(本当に、閣下は今、なにも考えられないのだわ……)
リンは心底そう悟った。それでも諦めきれず、
「閣下、あと一口でいいですから、食べ物を胃に入れてください」
と半分懇願するように言ってみた。ところが、
「……食欲がない」
食べ物の好き嫌いを訴えてふて腐れる子供のように目を逸らしながら、そう言うアクセルなのだった。ワインが既に3本目のワインがほとんど空である。
(どれだけ飲むつもりなの?)
リンはサンドイッチに手を伸ばした。
「パンを外せば、酒のつまみみたいなものです。ハムやチーズなら食べられるんじゃないですか?」
そういって手際よくサンドイッチを解体し、ハムやチーズをパンから外していく。
「手慣れてるな……」
アクセルは見るともなしにその指先を眺めながら、意外そうに呟いた。その声はひどくかすれていたが、頭脳は依然として明晰で。早く前後不覚になって眠ってしまいたい、と望みつつワインを煽るアクセルの努力に反して、酔いは一向にアクセルの意識を押し流してはくれないのだった。
「研修で小児科病棟にいた時、よく、こうしてたんですよ。
お行儀の悪いことに見えるかもしれませんが、薬剤のせいで口が渇いていると、パンを咀嚼して飲み込むのが本当に億劫なんです。そのせいで食欲も湧かないんです。
でも、オートミールが好きな子供なんていないでしょう?」
そこまで言って、リンはかすかに笑った。
「だから、サンドイッチが出た日は分解して、パンはホットミルクに浸して、中身の具はサラダと一緒にオードブルみたいに盛りつけて、と色々工夫したんです。
そうしたら、結構ウケて。全然食べられなかった子も食べられるようになったりしてーー」
そうこうしているうちに、アクセルの目の前に綺麗に並べられたチーズとハムの小皿が差し出された。
「少しだけでも食べて、閣下。少しでいいですから」
正直まったく食欲が起きないアクセルではあるが、リンの必死な眼差しに絆された。小皿を受け取り、ハムを1枚、なんとか口にした。そして、それを言い訳に、4本目のワインを取り出すアクセルをリンは呆れたように眺めることしか出来ずにいたのだった。




