84.運命の日
アクセルがリンに会えなくなってから、7ヶ月が過ぎた。アザリスには光り輝く初夏の日射しが降り注ぎ、首都・デリースのスモッグも、忙しなく歩き去る人々の群れも、7ヶ月前とはまるで変化がないように見える。
しかし、高層ビルの28階にあるオフィスから地上を見下ろすディスカストス侯爵、アクセル・ギルバートにとっては、いまだかつてないほど心を浮き立たせる季節の到来だった。なぜなら、あと2週間もすれば彼の恋人、リン・バクスターが研修医から晴れて正式な医師として就業する許可が下りる予定だからである。昨日届いたメールには、今、研修をさせて貰っている病院の指導医から無事、申請書類にサインを貰った、とあった。
『申請書類一式を、今日ドクター・ブルームに郵送するつもりです。
順調にいけば、2週間程で認可が下りる予定。そうすれば私もとうとう新米医師として就職です。まずは救急救命センターで色々な経験を積ませて貰おうと考えています。
就職先は、今いる病院か、ギースのドクター・ヴァン・マーネンのところか、それともドクター・ブルームの伝手でまったく違う場所か、とにかくどこかの病院で働かせてもらえるよう頼んでみる予定です。
ただ、その前に少し休暇を取って孤児院に帰ろうかな、とも思っています。閣下やミリアム、リチャードさんにも会いたい。
無事申請が通って就業許可が下りて、今いる土地を引き払ったら連絡します』
リンにしては珍しい、少し長めのメールを読んでアクセルの頭の中は、リンと過ごす夏休みの計画で一杯になってしまった。ミリアムやリチャードの名前もあったものの、アクセルに向かって『会いたい』とはっきり書いてきたのは初めてのことで、アクセルはすっかり有頂天になった。
ギースの別荘や、モン・ペリエのレ・バン湖畔のコテージなど、行ったことがある場所を除いて、アクセルは自分の持っている別荘や気に入っているリゾート地の脳内データベースをフル回転させて、リンを喜ばせることのできる場所はどこか、真剣に考え始めた。
そのせいで、最近ではビジネス・ミーティングも、あまり重要でないものを中心に部下である何人かの役員達に任せるようになり、周囲の人々はアクセルもとうとう配下の人材に仕事を任せる事を覚え始めたか、とアクセルの与り知らない所で評価されたりしていた。
その実、仕事の最中も気がつけばリゾート地のWEBサイトを開いたり、美しいオーシャンビューのプライベートヴィラを持ったオールスイートのホテルのパンフレットを眺めたりして、アクセルの頭の中はすっかりリンと過ごす夏のバカンス計画で占領されていたのだった。
「旦那様、いくらなんでも露骨すぎるかと思いますが……?」
そんなアクセルの浮かれようにすっかり呆れ顔で苦言を呈しながら、グッドマンは紅茶のカップを目の前に置いた。一方で、小言を言われているアクセルはといえば、そんな言葉もどこ吹く風で目線も上げずにタブレットPCに指を滑らすのに忙しい。
「旦那様、まずはバクスター様にご予定を確認された方が良いのでは?」
グッドマンが再度言った。
「勤勉なバクスター様のことです。もしかしたら郷里の孤児院をしばらく手伝うとか、リクルート活動を兼ねて病院でボランティア活動をするとか、すでにご予定を入れている可能性もあるかと存じますが?」
そう言いながらグッドマンは可愛らしい杏のタルトとディスカストス侯爵家秘伝のキュウリのサンドウィッチをリアルアンティークのケーキ皿に取り分けると、アクセルの目の前に音もなく置いた。
「なぁに、大丈夫。ミリアムにも頼んでリンを誘って貰っているところだ。ちょうど、ミリアムの卒業と重なっただろう?卒業記念に学生生活最後のヴァカンスにつき合って!と言えば、リンも無碍にはできまい」
ことここに至って、ようやくアクセルも学んだ。リンに対しては、ミリアムの懇願の方が自分の申し出よりもずっとずっと効果的である、ということを、である。
実はアクセルはこの就職を機に、リンとある『約束』を取り付ようと画策していた。そのためにもリンには是非、自分と共に、心とろけるような神々の楽園、南国のリゾートでの楽しいヴァカンスに参加してもらわなければならない。
この企みを実現する為に、と、ミリアムに頼み込んで先手を打って動いて貰うことで、リンが色々と遠慮してリゾートへの旅行を断ろうとするのを防ごうと考えたのだった。
(ふうむ……旦那様もさすがに少しずつ学習しているということでしょうか?)
こと恋愛に関しては出来の悪かったはずの主人を見遣りながら、グッドマンはアクセルの机の上にうず高く積まれたパンフレットやウェブページのプリントアウトをパラパラとめくった。
それらにはところどころにポストイットが貼ってあり『席のレイアウトを確認』だの『ピアノの生演奏は依頼できるか要確認』だのといった事細かなメモが書いてある。
自分の仕える主人とはいえ、愛する女性に将来の約束を誓ってもらう為の、その気合いたっぷりで準備周到な様子にすっかり呆れたグッドマンはアクセルに気付かれないようそっとため息をついた。
そしてふと、恐ろしい可能性に気付いて、知らず知らずに自らの主を見つめた。
(もしも……そう、もしも、バクスター様を失ったら、旦那様はいったいどうなってしまうのだろう?しかも、それがどうしようもない、例えばバクスター様の心変わりや選択によるものだとしたら?一体全体、旦那様はその喪失に耐えられるだろうか?)
両親と引き離されて育ったアクセルは、幼少時からずっと、愛情を注ぐ対象を求めながら生きてきたように、グッドマンには見えた。元々ディスカストス侯爵家の人間は皆、愛情過多と言っても良いほど庇護欲が強く、愛情深い。それが政略的な色合いの濃い縁談であったとしても、婚姻を結んだ後は概ね、愛情に溢れた家庭を築いて来た。
そんなディスカストス家に受け継がれるDNAは世代を越えて、その莫大な財産と共に愛情深い性質もまた、伝えてきたのである。それらは現在その血を受け継ぐグッドマンの大切な旦那様とお嬢様にも、確実に引き継がれている。
と、そこまで考えてふと我に返り、グッドマンはかるく首を振りながら自嘲の笑みを浮かべた。考えてみれば、リンだとてディスカストス兄妹に負けず劣らず愛情深い人間ではないか!
(そんなバクスター様を疑うなど、私としたことがなんとバカバカしい杞憂に考え耽ってしまったことか!)
リンは"あの"アクセルの告白に、その場でOKを出さなかった唯一の女性であると同時に、アクセルとつき合うことで負うことになる大きなリスクに晒されながらも、それでも『別れ』という安易な解決策を選ばない程度にアクセルの事を愛してくれている"はず"だ。そんな愛情深いリンがそう簡単に心変わりするとは考えにくい。
(だとすると、なにか、何か大きな運命の潮流のようなものによって、旦那様とバクスター様の人生を引き離すようなことが起こったとしたら……。二人はもちろん、私たち周囲の人間もどうすることもできないようなことで、旦那様からバクスター様が失われてしまったとしたら…?
いったい旦那様はどうなってしまうのだろう?)
そこまで考えて、グッドマンは再びぶるり、とその身を震わせ、たった今自分の頭の中に浮かんだイヤな想像を振り払った。そして、
(そんなことは、起こるわけがない)
そう思おうとして、再び手の中のファイルに綴じられた美しい、青い海と珊瑚礁の写真に目を落とした。蒼い蒼い、エメラルドグリーンとグリーンブルーを混ぜ合わせたような海面に、うっすらと白い珊瑚礁が透けている、南の島リゾートのパンフレットだ。眩しい夏の日射し。この世の天国のような場所。先代のディスカストス侯爵夫妻も大好きだった、エグゼクティブリゾートである。
(こんな遠方へ行く航空券のチケット代が払えない、とバクスター様がお断りになる姿が目に見えるようです。『当然自分が出す』と言い出す旦那様を申し訳なさそうに、しかし断固とした態度で見返すご様子も……)
そんなシチュエーションを想像し、南国のリゾートへの旅行を断られて落ち込むアクセルにどんな秘策を授けようか、等と考えてグッドマンの口角がきゅっと上がった、その次の瞬間ーー。
運命の電話がアクセルの部屋に鳴り響いた。




