79.デリース、霧雨の夜
その夜、デリースは霧雨にけぶっていた。
辺りが暗くなる頃、会員制のクラブ「ブライテスト」の絢爛豪華なシャンデリアの照らす階段を上って一人の男が現れた。豊かな黒髪が雨のせいで少し縮れている。頭のてっぺんから足の先まで古今東西の高級品を纏っているのだが、身体全体から醸し出される、無頓着な様子からどうにも伊達男にはなれそうもない。
彼には「ブライテスト」に入会した覚えも無ければ、こうして足を運んだこともなかった。
実際、入会したのは彼の5代前のご先祖で、以来、彼の家では家督を継ぐのと同時に、この「名誉ある」貴族階級限定の会員権を相続するのが習いになっているのだった。
彼がなぜこの場所に今まで足を運ばなかったかと言えば、自分が最も毛嫌いする『世間』なるものがその最も醜悪な側面をありありと顕在化させているのがこの「ブライテスト」だからだった。妬み、嫉み、当てこすり、ジョークに潜ませた嫌味の応酬といった貴族社会で必須の社交術にまったく興味がない人種である彼にとって、毎月安くない金が自動的に吸い上げられるこの「貴族専用会員制クラブ」というものが非合理的・非効率的の権化のように感じられた。
そんな彼が何故、今夜、このブライテストに現れたのかと言えば、さる人物から呼び出しをくったからだった。それは昔の馴染みで、今はアザリス警察機構の幹部階級に属する友人で、最後に会ってからすでに10年の月日が流れていた。
『今抱えている人物捜索の仕事でお前の協力を頼みたい』他でもないその大切な友人に依頼されたがために、アザリス北東部に位置する勤務先である大学敷地内の屋敷からはるばる首都デリースまで出てきたのだった。
(一体どんな捜査なんだろうな?)
電話で聞き出そうとしたのに、『守秘義務』の一点張りで結局こうして俗世へと引っ張り出されてしまったことは遺憾だが、もうすぐ会える気の置けない友人との語らいに知らずに浮かぶ微笑みを隠そうともせず、歩を進め「ブライテスト」のドアマン兼ボディガードの誰何に彼は答えた。
「ルシアン・ブルーム。今日はニールズバーグ男爵と約束している」




