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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
76/152

76.大きな存在

 あの日ーー。

 妹を連れて世界中を転々としている両親が死んだ、という知らせを受けたあの日。

 アクセルの中の少年は死に、ただただ屈託無く笑っていられた子供の日々は終わりを告げたーー。


 暖かな春の午後だった。

 担任教師が食堂に飛び込んできたその時、アクセルは成績優秀者に許された自習時間を過ごす為に、丁度お気に入りのスペースでノートとテキストを机の上に出している最中だった。シンとした図書室よりも、軽いざわめきの中で勉強するのを好んでいたアクセルは、いつも食堂の隅っこを指定席にしていた。

 妙に焦った表情をしたその若い担任教師から『校長からの呼び出しだ』、と言われ、一体なんの説教だろう?等と考えながら、暢気に校長室へと足を向けたアクセルを待っていた恐ろしいニュース。それを聞いた途端、アクセルは蹌踉(よろ)けて思わず踏鞴(たたら)を踏んでしまい、脇に立っていた担任教師がとっさに支えなければ、すてんと座り込んでしまうところだった。生まれてこの方、そしてこの全寮制のプレップスクールに入学してからは尚更、『頼られる存在』としての自分を自負していた少年が初めて味わう絶望と衝撃、そして目眩。アクセルは生まれて初めて『夢であって欲しい』と本能的に神に祈った。

 しかし次の瞬間、更に恐ろしい考えに襲われたアクセルは、思わず叫んだ。


『ーー!妹、妹は?!ミリアム・ヘスターは無事なんですか?!』


礼儀作法を完璧に身につけた、完璧な監督生候補プリ・プリフェクト・ザ・パーフェクトとして名を馳せていたアクセルにあるまじきその取り乱し方に、校長は驚き、そして優しく丁寧にその時点で分かっていることを順序よく話してくれた。

 ミリアムは無事だと言うこと。

 熱帯地方の第三国での死亡だったがために、遺体はすでに荼毘に付されたこと。

 第一報の入った直後には、予め契約してあった葬儀コーディネート会社のスタッフとグッドマンが、二人のお骨と共に一人残されたミリアムを連れ帰る為に現地に向かっていること。

 しかし、ミリアムが無事、以外の内容はまったくアクセルの中に残らなかった。それほどアクセルは、ホッとして安堵のあまり、他の事を覚えていられなかったのだ。


 あの時、この世でたった一人になってしまった、と思ったあの瞬間の絶望は、未だにアクセルの人生で一番の衝撃だった。両親ばかりではなく、ミリアムまでが病魔によってこの世から連れ去られてしまったのでは?と思いついた時の、あの恐怖。思えば、あの恐ろしい思いを二度としたくない、という衝動がミリアムを失わずにすむように守っていくのだ、という強い意志力を産み、その意志力こそが、その後、若かりし日々の自分がビジネスの世界で悪戦苦闘するのを支え続けてくれたような気がするのだった。

 そうしてその後しばらくの間、本来のアクセル、優しく朗らかで、柔らかな精神(こころ)を持ったアクセルは死んてしまったような日々が続いた。両親の残した遺産を目当てに近づいてきた沢山の大人達や、『かわいそう』という偽物の同情につけ込んだタブロイド紙の取材攻勢。少年だったアクセルの身には、それまでとは比べものにならないような、様々な事件がふりかかり、それをなんとか切り抜けようとしてグッドマンのアドバイスを聞き入れず、一人で突っ走って、結果、手痛いしっぺ返しをくったこともあったのだ。

 それでもアクセルは決して逃げ出すことだけはしなかった。大学生活を送りながら、ささやかな投資ビジネスから始めて、貴族の若造と見て足下を掬おうとする人々の丁々発止を受けてたっては様々な局面で踏ん張り、時に悔し涙で枕を濡らしながら世間の荒波に立ち向かい続けた。そうしてアクセルは強くなり、経済力と同時に色々な力を身につけていったのだった。

 しかし一方で、強くなるのと比例するようにアクセルの精神(こころ)は乾いていった。カラカラに干上がった荒野(あれの)のように堅くひび割れて、荒涼とした風景へと変わってしまったのである。

 一方、女性とのつき合いも、単なる戯れとしか感じられない日々が続いた。柔らかく良い匂いがする女性とのアバンチュールは、フラストレーションの溜まる日々を送っていた若きアクセルにとって、格好のリラグゼーションであり、レジャーであり、また気分転換だった。ビジネスがまだ不安定だった頃は、社交界にも顔を出し、そのプロセスで何人かの貴族令嬢とつきあったりもした。

 しかしそのうち、そうした人間関係にすっかり嫌気が差し、段々社交界からも足が遠のいてしまった。なぜならば、アクセルに寄ってくる女性達は、皆、軽薄な精神に人間味の無い心を持った、財産目当ての女性ばかりだったからである。こうして20代も半ばを過ぎる頃には、アクセルはすっかり恋愛というものを疎んじるようになってしまった。

 それでもガールフレンドが切れたことは無く、そんな兄を見て思春期のミリアムとディスカストス侯爵家の未来を憂うグッドマンが眉を顰めていたのは、当然の帰結といえるだろう。

 この頃のアクセルは、常に『来る者拒まず・去る者追わず』の態度を貫いていた。アクセルに近づく女性の中には、ウソの別れを切り出すことでアクセルの気持ちを確かめようとしたり、高価なプレゼントをせしめようとしたりする者が後を絶たず、それに嫌気が差したのもある。しかし最も大きな理由は、そうした真心を介さないつき合いに、次第にアクセルの精神(こころ)がすり切れ、空しさを感じるようになった、というのがあった。

 そしてもう一つ、結婚相手を選ぶのにとても大切な譲れない条件を一つ、アクセルは持っていた。それは『ミリアムに好かれる、ミリアムを大事にしてくれる女性』というもので、つき合いが始まると間もなく、アクセルはミリアムと一緒の食事やレジャーにガールフレンドを誘ってはミリアムとのコミュニケーションや態度を観察したものだ。

 こと、人を見る目については、アクセルはこの風変わりな妹に絶大な信頼を寄せていた。

 ディスカストス侯爵家の御曹司として、学齢になると同時にアザリスに定住してアザリス流の教育を受けたアクセルに比べて、両親と死別するまでずっと共に外国を転々としたミリアムには、一種独特の雰囲気と不思議な能力が備わっていた。

 物心ついた頃から、たくさんの、文化も言葉も顔の作りも肌の色も違う人々の中で育ってきたミリアムにとって、相手の感情の機微を鋭く察知することはある意味死活問題でもあった。自然現象を見逃したり、些細な物言いに鈍感でいることが『死』に直結する文化圏だってある。性差を厳格に捉える宗教もあるし、夜出歩くことで『穢れ』にのりうつられるとして、けっして暗くなった後に家から出ない土着宗教だってある。そこには論理では測りきれない、身に染みついた昔々からの言い伝えや身体の隅々まで染みついた非常識な常識があるものだ。

 外者(そともの)としてそうした場所で暮らすには、どこに行ってもまずは周囲の全てに敬意をはらい、さりげなく示されるささやかな、しかしひどく大事な約束事を聞き漏らさない聡明さと、それを守る気遣いと勇気が要求される。

 ミリアムにはそういった生き方が身に付いていて、だからこそ、見栄と建前を重要視するアザリスの貴族文化が性に合わなかった。そんなミリアムの前では誰も偽りを通すことができない。例え見栄や建前を駆使しても、たちまち本音を見破られてしまう。

 そんなミリアムに本性を見破られた底の浅い女性は、また、アクセルにとってたった一人の家族であるミリアムと仲良くなれるわけがなく……。そんな人間を、ディスカストス侯爵家に入れることなど出来るわけがない、というのがアクセルの至極真っ当な言い分だった。

 中には貴族階級出身であっても、一人くらいは真心の通じる気だての良い女性がいるかも知れない……アクセルもグッドマンもしばらくの間はそう思っていた。ところが、アクセルに言い寄るような女性達は、貴族階級の出であろうとソーシャルクライマー(玉の輿を狙う女)であろうと、皆、上辺だけの親しみをその色々と手を入れた顔面に貼り付けて、ミリアムに(おもね)っては、陰でこそこそと悪口を言ったりするのだった。更にひどい者になると邪魔者だと言わんばかりにミリアムを遠ざけようと、アクセルにあること無いことを吹き込んだりするものまでいた。

 そんなこんなで20代後半を迎える頃にはすっかり女性不信になってしまったアクセルは、心底想い合う愛情と真心をベースにしたつき合い、というものの経験がほとんどなかった。その結果がリンと初めてあった時の過剰反応的な差別発言であり、また、リンとこころを通わせ合った後の耽溺とも言える愛情表現というわけなのだった。


*-*-*-*-*


 そんな寂寞としたアクセルの人生が、あの日、ウィリアムズ・カレッジの面会室でミリアムに連れられたリンと出会ったことで大きく変わり始めた。

 それまでひたすらミリアムを守ることをはじめ、両親から引き継いだディスカストス侯爵家という家名を守ることだけを念頭に生きてきたアクセルの中に突如生まれたリンへの興味と苛立ちは、やがて徐々に醸成されていき、いまでは深い深い愛情に変化している。

 同時に、リンを深く知るようになるにつれ、アクセルは彼女(リン)に恥じない人生を送りたいと思うようになった。その『想い』が、アクセルの事業への姿勢を大きく変えた。

 リンに出会う前は、ただただ、お金を稼いでディスカストス侯爵家を維持し、ミリアムに不自由をさせないためにだけ働いていたアクセルだったが、リンと出会い、その人となりに接し、そしていつしかリンへの思いを自覚するようになったことで、社会への視線が変化したのである。

 意識せず、諾々と手にしてきた特権という名の曇ったメガネを外して、社会の現実を眺めれば、このアザリスという国の階級社会というものが如何に歪んだものであるかがよく見えた。それでも両親との約束でディスカストス侯爵家を保持していくことが至上命題であるアクセルは、爵位を捨てることはできない。

 そんな風に悩むアクセルにグッドマンが


「それならば、旦那様が旦那様たる所以であるこの爵位を利用して、旦那様らしいやり方で社会に貢献、還元すればよいのではないですか?」


と、進言したのをきっかけに、今のアクセルの事業ポリシーがあるのだった。

 リンと知り合い、そしてその人となりに接して、アクセルは大きく変わった。慈善事業や社会福祉企業体への投資、そして、年収のおよそ1/3にまでのぼる方々への寄付など、お金の使い方をガラリと変えたのだ。

 アクセルにとってそれだけリンは大きな存在なのである。まさに、代替のきかない、かけがえのない、大切な存在。無論、恋する相手としての甘い思いもあるが、それにも増してアクセルにとっては自分を正しく良い存在へと導いてくれる聖母のような、それくらい大きな存在になりつつあるのだった。


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