73.交渉の失敗
項垂れきったジョンをオフィスから帰し、アクセルはグッドマンと打開策を練った。
幸い、記事が載りそうだというタブロイドの社主はプレップスクール時代の知り合いで、同じ貴族階級の人間だったこともあり、アクセルは早速その伝手で連絡を取り、直接記事を買い取りたい、と打診することにした。
ところが、驚いたことに、つい1ヶ月前にその会社の株を売却したのだという、アクセルより少し年かさのその知人は『相続税対策だ』と笑って言った。現在の爵位を持っている父親が長くないだろう、と告知されたため、残産管理のコンサルタントと弁護士のアドバイスで資産の調整を始めたのだが、意外に気の弱い父親本人にはどうしても死期を告知することができず……。そんなわけで、一連の資産調整は極秘裏に進められていた為に、そのタブロイド紙の売却も世間には知らされていなかったのだった。
『すまないね、いざというときに』そうやんわりと謝罪する知人に礼を言って電話を切り、続いてアクセルが連絡を取ろうとしたのは、その知人が株、つまり会社を売った、と言っていた現在の大株主である人間だった。
その人物は、アザリスから遠く離れた亜熱帯リックバー海の租税回避地である小さな島国に住んでいる大富豪だという話だった。
話は至極単純……なはずだった。その新たな株主に記事の買い取りを申し出れば良い。
しかし、ここからが予想外の展開となった。名前を聞いたこともないこのこの新たな株主と連絡を取るのに一悶着あったのである。というのも、アザリス国内でその代理人として資産の運用をを請け負っているトレーダーが、仲介を拒んだからだった。
きちんとビジネスの手順を踏んだ取引の申し出を、ピシャリとはねつけられアクセルは焦った。この時点ですでにタブロイドの発行まで1日半を切っている。そこでアクセルはグッドマンのアドバイスを容れ、第三者を介しての交渉に移った。
交渉人として白羽の矢が立ったその男は、そういった買収やマスコミの記事を操作することを長く生業にしている男で、ジョン・マシューズの話だとなかなか気の良い男だということだった。最も、ジョンにかかれば、誰も彼も『良い人』で『気の良い人間』なのだが……。
直接交渉を行う為に、問題の富豪が住むという南の島への航空券まで必要経費で用意させ交渉人を送り込んだ時は、グッドマンもジョン・マシューズも、そしてアクセルもまた、内心交渉の成立を信じて疑わなかった。
ところが、である。
残り時間が短くなる中で、ヤキモキしながら良い知らせを待っていたアクセルの元に届いたのは、交渉失敗の知らせだった。
烈火の如く怒り狂いながらも、冷静を装って理由を問い質すアクセルに、その交渉人は言った。
「閣下、相手は正真正銘の元破落戸で成り上がりもんです。要するに、閣下の爵位が気に入らない、と、その一点張りで。とりつく島もない。
信頼できる取引相手であることをアピールしようとして閣下の正体と爵位を口にした途端、態度を硬化させやがってね。どうにもなりませんでした。
噂だと、昔、貴族階級の人間にひどい差別をされたことを恨んで、相手が爵位持ちだと一切取引をしないことに決めてんだってんで。
閣下から指示されていた金額までこっちから申し出てやったってのに『その十倍出されてもごめんだ』と、こうですよ。
はぁー、もう、ああいう頑固な手合いはいけませんや。すみませんね、折角任せていただいたのに。約束通り、報酬は前金だけで結構です」
アクセルは目の前が真っ暗になった気がした。まるで自分が犯した過去の過ちが、姿を変えて目の前に立ちはだかっているような気さえする。
リンは許してくれた。それはリンが優しく心根の美しい人間だったからだということは分かっていた。その上リンはアクセルの思いを受け止めて、応えてくれさえした。
別に自分がやったことを無かったことにしたいと思ったことはない。あの愚かな非人道的な振る舞いをした自分の、その過去を抱えながら、リンに恥じない人間としてリンの幸せを実現しながら生きていくことがアクセルにとって唯一の贖罪の道だと思っていたからだ。
(なのに何故、今……、しかもこのタイミングなんだ……?)
アクセルは寝不足で朦朧とする頭をかきむしった。
自分がリンと交際することで、享受している幸せを、間違いなくぶちこわすことになるだろう記事がもうすぐ国中にばらまかれる。
それは、アクセルには、まるで神罰のように思えるのだった。
あの頃、差別を差別と意識せずに生きていた、傲慢な自分。
富豪と呼ばれるまでに成功したにもかかわらず、昔受けた差別に対する怒りを腹の中に抱え、爵位を持っているというだけで交渉を断ったという男の人生を台無しにしたのは、もちろんアクセルではない。これは間違いなく、単なる八つ当たりであり、ビジネスの世界にはあるまじき感情的で採算を度外視した振る舞いだ。実業家としては、ありえない愚行といえるだろう。その成り上がり男はアクセルの出すといった金額にも見向きもしなかったという。それはゆうにそのタブロイド紙で上がる1年分の利益と同額か少し多いくらいの金額だったはずだ。
この交渉失敗の根底に横たわっている本質的な問題は、それだけの金額をふいにしても構わない、とその男が思うほど、根の深い憎しみと恨みを生み出すような差別を、アザリスの貴族階級の誰かがその男に与えた、いうことであり、それはとりもなおさず、アクセルの所属するこの貴族社会全体、引いてはこのアザリスという国そのものの問題である、ということだ。
そこまで思い至って、尚更アクセルはやりきれない思いに打ちのめされるような気がした。
もはや打つ手はない。あとは、記事が出た後の事後対策をグッドマンと打ち合わせておかなければならない。
(いつまでもうじうじ考えていても仕方がない。どうしたら騒ぎを最小限にくい止められるかを考えておかなければ……)
そうしてアクセルはマスコミ対策を相談する為に、グッドマンを呼び出すよう秘書に指示を出すのだった。




