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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
72/152

72.薔薇師の息子


 ジョン・マシューズは元々ギースにあるディスカストス侯爵家別荘の薔薇園(ローズガーデン)を任された薔薇師である父親と、別荘の建物全体の清掃を取り仕切る清掃婦筆頭である母親との間に生まれた三人の子供の末っ子で、たった一人の男子だった。

 高校を卒業した後、デリース近郊にある自動車整備の専門学校を出て、整備士の国家資格を得たが、新卒での就職に失敗。生まれ故郷であるギースに帰り、のらりくらりと市内の整備工場でアルバイトをしながら、夏休みの間ギースに滞在するディスカストス侯爵とその妹嬢、そしてその婚約者の海遊びに派生する、細々とした雑用を引き受けて働いていたところをグッドマンの後継者候補として見込まれ、正式に雇われたのだった。

 二人の姉と朗らかな母、そして実直で言葉少なの父親に育てられたジョン・マシューズには、グッドマンのような才気も、一を聞いて十を知るような有能さも、ましてやディスカストス侯爵家に対する篤い忠誠心さえもなかった。

 が、その代わり、何とも言えない人懐っこさがあり、どこに行っても誰と会ってもすぐにそこに溶け込むことができた。会話も巧みで、初対面の時から相手の警戒心を無くし、いつのまにか腹を割らせるという希有な能力があった。それは、薔薇を育てることしか能のない、逆に言えば薔薇を育てさせたら天下一品の技能を持つ、無骨で寡黙な父親には似ても似つかない特技なのだった。

 他方、ギースの別荘屋敷の隅々までをひたすらきれいに掃除する、という一見すると気が遠くなるような仕事に生き甲斐を感じているジョンの母親も、職人気質の父親と同じく、自分の仕事に強い誇りと自負を持っていた。彼女は、毎日必ず客用寝室の専用バスルームについている、特注品のイエローステンレス製のカランをピカピカに磨くのが趣味、というこれまた職人気質な、おしゃべり好きな田舎の中年女性であり、そんな母親に人なつこいジョンは似たのだろう、というのが大方の意見だった。

 一方、ジョン本人としては、グッドマンの後を継いで筆頭家令だの執事だのといった家人の中でも高い地位を目指すつもりはもちろん、そもそも当初、ディスカストス侯爵家にずっと勤め続けるつもりもさらさらなかった。彼は末っ子長男によくありがちな、甘やかされて育った田舎育ちの青年に過ぎず、野心も夢もなく、ただただぼんやりと親しい友人達とバカを言いながら暮らしていくことを望む、そんな平凡な青年だった。

 ただ、グッドマンの『自分の後継者候補として育てたい』という言葉を聞いて、ディスカストス侯爵家に強い愛着を持つ母親が喜び、号泣したのを見て、ジョンは生来楽観的なその頭で、


(まぁ、しばらくはこのおっさんにくっついて頑張るしかないかー)


とその仕事の難易度について、高をくくっていたところがあったのである。


(そのうち、この筆頭家令のおっさんも、俺には無理だと気付くだろう)


ジョンはのほほんと考えた。その後はどこかの整備工場に潜り込んで港でシーフードレストランをやっている家の幼馴染みと結婚して暮らそう、そんなふうに楽観視していた。実はそんな楽観的なところが、グッドマンの気に入ったとはつゆ知らず……。

 その後、グッドマンにつかず離れずで仕事を覚える時期を経て、少しずつその仕事を分譲されつつ、いつか来るXデイ(グッドマン引退の日)への覚悟をしながらはや二十四年。今ではすっかりお屋敷管理の仕事にも慣れ、家族も得て、デリース郊外に小さな家も買った。そのおかげか、以前よりも弱音を吐かなくなった、とはグッドマンの直近の評価である。


 そんなジョンが、見ていて可哀想なくらい、萎れてうなだれていた。

 子飼いのライターからの連絡を受け、自分なりに八方手を尽くしたというのに、自分にはどうにもすることができなかった……。そんな無力感がひしひしとジョン・マシューズの肩口から漂っている。

 ジョンとグッドマンがこうして連れ立ってアクセルの元を訪ねたのは、こうした最悪の状況のせいだったのである。


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