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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
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69.リンの逃亡計画

 自室に入り、座り慣れた椅子に座って一息ついたリンは、机の中から常備してある高栄養価ナッツバーを取りだしがぶりと頬張った。ついでにジョギング用にストックしてあるスポーツドリンクを、常温のままごくごく喉に注ぎ込む。消化が良いように、意識してゆっくりと咀嚼すると、飲み込んでからスポーツドリンクを飲んで口の中をさっぱりさせた。

 そうしているうちに、驚くほどてきめんに頭と視界がスッキリしてきた。思えば飲み物を摂ったのも食べ物を口にしたのも、今朝、ドクター・ヴァン・マーネンの個室でのお茶以来である。


(医者の不養生とはよく言ったものね……。極度の緊張状態のせいと、水分補給を怠ったせいで、脱水状態になりかけていたんだわ。そんなことにも気付かないなんて、どれだけ余裕のない精神状態だったんだろう?)


 ナッツバーの糖分から生産されたブドウ糖が補給されたおかげで、脳の回転速度が上がっていくのを感じながら、リンはそっと丹田に手をあてた。そうしているうちに身体の方にも水分とエネルギーが行き渡り始めたらしく、これまたてきめんに手足と背中がポカポカと暖まってきた。

 リンの心は決まっていた。


(ここを離れよう。ほとぼりが冷めるまでか、このまま研修医生活の最後までかは分からないけれど。そうすれば、少なくとも、私もこの病院の人達もタブロイド記者とパパラッチの襲撃に遭わずに済む)


そこまで決まればあとはどこに身を寄せるか、である。

 リンには一つだけ心当たりがあった。去年の夏、モン・ペリエ大学のサマースクールに参加した時に、成績優秀者として表彰された際、そのクラスを受け持っていた老教授が研修受け入れ先を心配してくれたのだ。

 幸い、ドクター・ヴァン・マーネンとの約束ができていたので、礼と共に丁重に断ったがリンの事をたいそう気に入ってくれた老教授からは『何かあったらなんでも言ってきなさい』と言ってもらい、別れた。そんな著名な教授が暮らすのは、確かアザリスとデューランズの間、デューランズよりの海岸線にほど近い、美しい島だったはずーー。リンはスマートフォンを取り出した。

 そう考えてスマートフォンで検索すると、件の老教授はずっと奉職していた有名な国立大学を退職した後、その島に小さな診療所を開いてゆっくり暮らしているとのことだった。幸い、教授からもらったメールアドレスも連絡先の電話番号も手元にあった。まずはこの教授に頼ってみよう。リンはそう考え、手早くメールを打った。

 そのまま十分ほど待ったが、メールが返ってこなかったので今度は電話を掛けてみた。すると、デューランズとの3時間の時差が幸いし、就寝前のところをつかまえて話をすることができたのだった。

 ところが、あてにしていた老教授は都合が悪いという。ただ、さすがというかなんというか、お弟子さんにあたる人を紹介された。名前も顔も知らない人だったのでリンは少し躊躇ったが、背に腹は替えられない。意を決して電話を掛けてみると、これが意外に気さくな人で、事情を話すと、タブロイドに対してひどく憤慨してくれ、すぐに来なさい、と言ってくれたのだった。


 そんな風にして、ギースをでる決心をしてから、ものの1時間でリンの行き先は決まった。リンの新たな研修先となる予定のその病院は、マニティ島という島にある大学病院だった。

 古来からアザリスと隣国双方に翻弄され、好き放題されてきたマニティ島では、昨今、マニティ語の復刻運動が盛んになっている。そのせいでアザリスから入ってくるアザリス語のマスメディアは少なく、無論、タブロイドの流通も少ないはずだ、とその教授は請け合ってくれた。リンは何もかもが驚くほどスムースに進んでいることに安堵し、ささやかな神の見えざる手を感じて、小さく感謝の祈りを捧げた。


 次にリンがメールを送ったのは、恩師であるドクター・ブルームと、頼りになる執事グッドマンだった。随分迷ったのだが、ミリアムに出すのはぐっと我慢した。これからリンの行く場所をアクセルに知られてはならない。アクセルがまたぞろリンの周りに現れるようになったら、同じ事の繰り返しになってしまう。寂しいが、とにかくほとぼりが冷めるまでは、アクセルと会うという危険は犯さないに越したことはない。

 リンはそんなふうに割り切った。それでもアクセルがきっとどんなにか寂しい思いをするだろうかと、その迷子のように途方にくれたような瞳を思い浮かべて、少しだけ心配な気持ちになったのも確かである。

 ところがリン自身はといえば、特にひどい寂しさを感じる事はなかった。結局の所、リンとアクセルのうち、どちらがより相手を深く想っているかと言えば、どう考えてもアクセルのほうなのだった。

 無論、リンにも愛情はあるし、アクセルを愛しているのも正真正銘真実なのだが、いかんせん、恋愛に慣れていない。男女の仲には「心変わり」ということがあるのだ、とか、アクセルがリンとのつきあいで最後の一線を越えていないことがアクセルにとってどう作用するのか、とか、アクセルに負けず劣らず自分も人気があるのだ、ということに思い至っていないのだった。つまりは、恋愛に関しては、リンはまだまだ頑是無い子供のようなものなのである。最も割をくっているアクセルが、そういったリンの清冽な部分に激しく耽溺していることは皮肉としか言いようがないだろう。


 そうして一通りメールを送り終わると、返信を待たずに、次は特に仲の良いナースの部屋を訪ねていくつか頼み事をした。忙しい仕事の合間を縫ってよく雑談を交わす程度に仲良くなったそのナースは地元・ギース出身であり、もうすぐ幼馴染みと結婚式を挙げること。そして、その婚約者は警官で、去年の秋に警察学校を卒業して戻ってきたのだということ。リンはそうした事情を知っていて、彼女とその恋人に、ここから逃げるための協力を頼もうと考えたのだった。

 リンの計画を聞くと、彼女は二つ返事で引き受けてくれた。そして、夜勤中の恋人にもすぐに電話を掛け、協力をとりつけたのだった。続いて、リンと彼女と親しいもう一人ナースに協力を頼んだ。こうしてリンの為に一肌脱いでくれることになった二人の友人は、今日、突然リンを襲った不愉快なタブロイド記事にも、それを真に受けてリンに冷たくなった心ない人達にもとても腹を立てていたのである。そのおかげで二人ともリンの依頼を快く引き受けてくれたのだった。

 そうこうしているうちにも、ドクター・ブルームとグッドマンから返信が入った。

 グッドマンからのメールには、今現在、アクセルを乗せたディスカストス家のリムジンが、高速道路をひた走りこちらに向かっている、とあった。タブロイド対策の為に、リンのもとに駆けつけるのが遅くなってしまったアクセルは、ひどく焦っていた、とグッドマンはリンに知らせてきた。


(さすがグッドマンさん。閣下に運転させないでくれて、本当に良かった……!)


リンは胸をなで下ろした。同時に、ほんの少しだけ罪悪感で胸が痛んだ。そんなふうに取るものもとりあえず駆けつけてくれる愛情深い恋人になんの痕跡も残さずに、自分は姿を消すのである。心配要らない、とグッドマンから伝えてもらえることになってはいるが、それでも愛し愛される恋人同士としては、随分な仕打ちであろう。


(信じよう…こうすることがベストなんだ、って。ほとぼりが冷めたらすぐに会えるようになる、って)


リンは自分に言い聞かせた。着の身着のまま出ていく自分自身よりも、後に残され自分をひどく恋しがるだろう、ハンサムな恋人が可哀想で心臓が痛い。

 リンはそれを振り払うように立ち上がり、ここに来る時持ってきた、ミリアムのお古のスーツケースに学術書を詰め込んでいくのだった。

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