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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
58/152

58.愛に気付く時


 足下がふらついているのを感じていた。後から後から涙が溢れて、止まらない。そのせいで、前が見えない。リンは廊下の壁に縋りながら歩いた。

 ドクター・ブルームの教授室は2階にある。壁に縋りながら、いつのまにか1階へと降りてきたリンはそのまま玄関の古いドアを開き、外へ出た。まだ冷たい3月の風がリンの身体を吹き殴るようにぶつかってくる。その冷え冷えとした冷たさに、ほんの少しだけ気持ちがしゃんとしたリンは涙で霞む瞳を、空へと向けた。

 きっと普段のリンであったなら、笑って受け流せたことだったろう。


『良くある事よ。』

『仕方がないわ。』

『気にしてなんてられないわ。』

『前を向くのよ。』


実際、小さい頃から受けた数々の差別や謂われ無き誹謗中傷に遭った時、リンは決まってそう笑いながらくぐり抜けてきたのだ。

 しかし、この日、この時のリンは普段の彼女ではなかった。半年間、健康に気をつけながらも張りつめきった神経を抱えて懸命に努力し続けてきて、今日は朝から緊張しっぱなし。しかも脳をフル回転させて、これ以上ないくらい酷使した1日だった。リンは疲れていた。疲れ切っていた、と言っていい。口頭試問に通った、という喜びによって放出されたアドレナリンを最後の支えにして、忘れ物を取りに行ったのだ。そこで思いがけず聞かされたのは、自分がどうすることもできない出自のせいで、この半年余の努力が水の泡と消えていたかもしれない、という理不尽な事実だったのである。

 リンの身体の中には、もう、ほとんどエネルギーが残っていなかった。そんなリンの内側を代わりに埋めるように、哀しみと怒りがものすごい勢いで、駆けめぐった。


(どうして?!どうしてなの?私が何をしたというの?!どうして孤児だと言うだけで、蔑まれなければならないの?!)


 玄関を出たものの、リンは一歩も歩き出すことができなかった。午後ももう遅い時間の太陽は、すっかり山向こうに沈んでしまい、医学部棟の古いレンガの壁は、冷え冷えとしている。しかし、リンはそこに縋らなければ立っていることさえ難しかった。薄暗くなりつつあるウィリアムズ・カレッジ、医学部棟の中庭に、リンの嗚咽だけがかすかに響いた。

 リンの心の叫びは続いた。


(神様、まだですか?これから先もまだ、こんな苦しみを耐えなければならないのですか?

 あんまりです!あんまりです!

 ああ!私、人を恨んでしまいそうです。そんな気持ち、知りたくないのに!そんな人間になりたくないのに!)


「ああ・・・!!」


リンはとうとうしゃがみこんでしまった。壁に向かい、身体を丸くして、おいおいと泣いた。涙は止めようもなく溢れだし、冷たく冷えたレンガのたたきにポタリポタリと水玉模様を作った。


(もう、立てない。)


リンはそう思った。今まで数々の試練に耐えてきた自分の中の矜持のようなものが、ぱっきりと折れてしまったような気がした。

 それはリンの中にあった、人を、人間を信じたい、という願望だったのかも知れない。それが今日、リンの受けた信じられないような仕打ちによって、まっぷたつに折れてしまい、足下に放り投げられているような気持ちなのだった。


(もう、良い。どうでもいい。このまま、消えてしまいたい。)


リンがそう思って益々身体を丸め込み、意識を手放そうとした、その時だった。ふんわりとしたなにかとてつもなく暖かなものに背中から包み込まれたのは。


「リン!リン・バクスター!しっかりしろ!」


それは深い海の底から響くような、バリトン。人を支配する声。命令し、意見し、所有する人間特有のカリスマに満ちた声だった。


(振り向かずとも解る。これは閣下の声。ディスカストス侯爵閣下の。)


そんな風に半ば現実逃避気味にぼんやりと物思いに沈みかけたリンの意識をつなぎ止めるように、アクセルが叫んだ。


「どうした?!気分が悪いのか?!リン!リン!!」


そう声を掛けている間にも、アクセルの手はテキパキと動いて、リンはあっという間にアクセルの大きな大きなカシミヤのロングコートの中にくるみ込まれていた。


「ああ、こんなに冷えて!貧血だろう?根を詰めすぎだ、君は!」


アクセルがリンの頬を大きな両手で包み込みながら、怒ったような泣いているような表情で、詰った。


「閣下・・・?」


「ああ、なんて酷い顔色だ!迎えに来て良かった!いいんだ、いいんだ、口頭試問なんて、また受ければいい。君がなんと言おうと、私は援助するぞ!金をもらうのがイヤなら、出世払いで返せばいい。」


アクセルはリンが試験に落ちたショックで打ちひしがれているのだと、すっかり勘違いしている。リンはアクセルの手から流れ込む暖かさに、少しずつ気持ちが暖まるのを感じた。


「あたたかい・・・。」


リンはそう言ってそっと目を上げた。そして見た。その瞳を。その瞳の中に引き込まれた。

 そこにアクセルがいた。正真正銘、本物の、むき出しのアクセルが。暖かく、愛情深く、包み込まれるような灰色の瞳が、不安と憂慮の波を湛えて、まるで雨の日の海のように濡れてけぶって光っている。


「ああ、リン、こんなに泣いて・・・。」


アクセルが親指でリンの頬を拭った。その暖かで(すべ)らかな指が本当に気持ちが良くて。リンは生まれて初めて人に甘える気持ちになった。

 リンの腕がそっとアクセルのウェストに添えられた。そして、そのままアクセルの柔らかなシルクカシミヤのVネックセーターの胸に、顔を埋めた。

 どこかでかいだ匂いがする。男性らしいムスクとどこか柑橘系の香り。思えば閣下といる時はいつも、この香りも側にあったような気がする。嗅覚神経を通じて呼び覚まされた記憶は、人間の最も原始的な部分を強く刺激するのだという。リンは背中に巻き付けた腕で、尚一層、アクセルの身体を強く強く引き寄せた。そして、大きく大きく何度も何度もその心地よい香りを吸い込んだ。

 その香りの効果は絶大で、リンは自分の心が静かに静かに沈静化していくのを感じた。そして唐突に悟った。


(なんてことだろう・・・。私は閣下が好きなんだ。愛してしまったんだわ・・・。)


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