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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
51/152

51.決死の試験勉強


 最後の学期(セメスター)が始まり、リンの生活は更なる多忙を極めた。

 ウィリアムズ・カレッジの医師養成課程では、卒業時の最終試験として、大学院の博士課程(ドクターコース)に匹敵する『口頭試問』を行うのが通例とされていた。

 しかも、良くある予定調和的な、設問の中身もほとんど決まっているようなものではない。

 3人いる試問官のうち、一人はあえて担当教授とは別の教授。もう一人は本人が医師免許国家試験を通過後、実習を行うことが内定している病院の現役医師。そして最後の一人として、聖職者が呼ばれるのが慣例となっていた。というのも、昨今の生命科学の発展から、生命倫理の問題が重く捉えられており、元々聖職者が設立したという経緯をもつウィリアムズ・カレッジではその点をきちんと教育してから、卒業生を送り出す、というのを重要な方針としているからなのである。

 試験ではこれら3名の試問官から1つずつ、計3つの試問が出され、それに対して口頭で回答する。勿論、ただつらつらと学術書や論文集に載っている文章を丸暗記して答えるだけでは済まない。なぜなら、試問官は学生の回答に対して、どんどん突っ込んでくるからである。

 そんな試験なので、1問につき少なくとも1時間はかかる。そのため、1問終了する毎に1時間のティータイム休憩を入れることになっている。学生はこのティータイムに、大量の砂糖やブドウ糖を摂取して次の時間に臨む。それくらい脳を酷使する過酷な試問であり、ウィリアムズ・カレッジの卒業生が各方面で高く評価されるのも、これに由来しているといえよう。

 そんな困難な口頭試問であるから、1回でパスできる学生はごく稀で、毎年毎年、卒業を賭けて3~4回トライするのが普通とされている。幸い、試験期間に設定されている間ならば、試問官のアポさえとれれば、何回トライしても良いことになっている。

 しかし、リンには、そう何度も受けるわけにはいかない、とても重大な理由があった。経済的な問題である。

 というのも、この卒業を賭けた口頭試問、授業料で受けることができるのは最初の1回だけで、2回目以降は、試問開催にかかった実費は自己負担になるのである。その経費には、教授を約6時間拘束するその人件費は勿論、実習内定先の医療機関の現役医師や、ウィリアムズ・カレッジの系列修道院や教会から聖職者を呼ぶ謝礼金だけではなく、その交通費までが含まれる、という厳しさなのだ。その金額は、軽く、アザリス国内における、大学新卒者の初任給に匹敵する金額を超える、と言われている。

 幸いウィリアムズ・カレッジに通っている学生のほとんどは富裕層の子女なので、そう、支払いに困ることはないらしい。しかし、孤児であり、政府からの奨学金で大学に通っているリンにとっては、支払うのがとても難しい金額だった。

 無論、シスター・マーガレットはきっと無理をしてもお金を工面してくれるだろう。『医師になる』という夢は、リンだけではなく、シスター・マーガレットをはじめ、同じ孤児院で育った仲間達全員の夢でもあるのだ。のみの市で売る為の石けん作りを手伝う子供達の中の幾人かは、石けんが一つ売れるたびに、


『これでリンお姉ちゃんに仕送りができるね』


と言って喜び、それを聞いて思わず涙ぐんだ、とのシスター・マーガレットからの手紙は、リンに新たな決意をさせた。


(みんな、私のことを、こんなに応援してくれているんだもの。落ちるわけにはいかない!)


 かくして、リンは、ますます試験勉強に没頭することになるのだった。


*-*-*-*-*


 一方、同じ部屋で寝起きしているミリアムはどうしていたかというと、彼女もまた、リンの懸命な様子に影響され、おのずと応援する気満々になっていた。

 人々の健康を守り、病気の治療にあたる医師を目指して懸命に勉強に励むリンではあったが、その分、これ以上やったら身体を壊してしまう、というギリギリの線を見極める能力を持っている。そしてその分だけ、端から見ているミリアムにしてみれば、無理を重ねるようなことを平気でやるのだった。

 例えば、2日くらいであればなにも食べないまま過ごしてしまったり、ジョギングとヨガを欠かさないにもかかわらず、睡眠時間を削れるだけ削っていたり。そんなリンを心配して、


「リン、今日はもう寝なくちゃダメよ!」


とミリアムがほとんど涙目で訴えると、リンはなんとかベッドに入ってくれる。しかし、上掛けを引きかぶって、明かりが漏れないようにしたベッドの中に小型のLEDスタンドライトを引き込み、延々と専門書を読み続けるのだ。

 さすがのミリアムもそこまでしているリンにそれ以上詰め寄ることはできず・・・。そんなことを繰り返しながらも、なにかとリンの面倒をみるようになったことで、ミリアムも徐々に忙しい日々を送るようになっていた。

 その結果、アクセルとの面接の回数も減ってしまい、ひいてはリンとアクセルが接触するチャンスもそれ以上に減ってしまったことは、麗しのディスカストス侯爵閣下本人にとっても、その忠実な執事にとっても、誤算だったといえるだろう。

 当然、グッドマンは影に日向に、さりげなく、時にはストレートにミリアムに向かってアクセルの恋路のバックアップを頼んだ。しかし、たった一人の親友の、あまりにも鬼気迫る打ち込みように、ほとんど崇拝の念すら覚えていたミリアムは、グッドマンに怒号を飛ばした。


「あなた、何を言ってるのかわかっているの?グッドマン!これはリンの一生に一度の、一大事なのよ?!それを応援こそすれ、邪魔だてするなんて、だれが許しても、この私が許さないわ!」


電話口で声を荒げるミリアムの、その水色の瞳が爛々と光る様や、眦をつり上げる表情が見えるような声音に、グッドマンはそれ以上何か言うのを諦めるしかなかった。

 グッドマンは、内心、一人ごちた。


(ミリアムお嬢様・・・事はあなた様の大切なお兄様にとっても、一生に一度の一大事なのでございますよ・・・?)


 アクセルは相変わらず、1日1通の電子メール(ラブレター)を欠かさず送っているようだが、リンからの返信は、大学に戻ってからと言うもの1週間に1回あれば良い方で、大抵2~3週間に1回のペースだと聞いている。それこそ、寝る間も惜しんで勉強しているのだから、当然、メールに返信する時間も心の余裕もないのだろう。毎週末、面会にも応じずリンにへばりついているミリアム宛に、二人で食べるように、と滋養のある手軽で美味しい食べ物をせっせと送る手配をしながら、グッドマンは焦燥感を覚えずにはいられなかった。


 グッドマンの中にわだかまっているのは、リンの担当教授とその執事への危機感であった。

聞けば、口頭試問の勉強というのは、担当教授や研究室にいる大学院生、その他講師を試問官に見立てて『リハーサル』と呼ばれる試問の練習を繰り返すことなのだという・・・。

 ということは、リンに会うことも出来ず、妹の助力も頼めず、ひたすらメールを送り続けることしか出来ていないアクセルに対し、担当教授という有利な立場を持つ、ブルーム伯爵・ルシアン・コンラッドは、毎日毎日、四六時中、リンと顔をつきあわせ過ごしている、ということなのである!


(なんというハンデ!)


グッドマンはギリリと歯を食いしばった。

 人間は顔を合わせている事に弱い生き物である。毎日毎日、ほとんど24時間一緒にいたら・・・。情が生まれてもなんの不思議は無い。

 ドクター・ブルームが有利な点はそればかりではない。同じ目標に向かって手を携えて努力する、という行為は、男女に関わらず人と人の精神的距離を縮めるのに、非常に効果的なのだ。古今東西、職場が恋の舞台になるのはその為である。

 モン・ペリエで例の『失礼なプロポーズ』を受け(そして断った)時点では、リンはブルーム伯爵家の執事によるプロポーズに憤慨していた。しかし、その後、なにがどう転んでしまうかは神のみぞ知ることであり。もしかしたら、問題の執事(ミスター・ケント)が、またぞろ、暗躍しているやもしれない。


(なんとかして旦那様とバクスター様との接点を演出しなければなりますまい・・・。)


将来のディスカストス侯爵夫人のために、自らの主人の幸せな未来のために、事態を動かそうと策を練り始める、グッドマンなのだった。


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