33.リンのいたずら
レストラン『アルズィユ』の料理はどれも絶品だった。
テーブルには、こうしたレストランに縁のないリンでも楽しめる、気の張らないカジュアルなメニューが所狭しと並べられた。
狭い階段を行き来しながら、1階の厨房から運ばれる料理の他に、テラスの隅に設えられた専用の石釜焼き上げられるフォカッチャやピッツアが供され、最後に出されたのはじっくりと1時間近くかけて焼き上げられたパエリアだった。
焼きたてアツアツで供されるそれらは信じられないほどクセがなく、素材そのものの旨味と滋味に満ちていて、4人は「美味しい!」と連発しながら、時に笑い合い時に真剣な顔で頷きあいながら、平らげていった。
「アザリスにはどうしてこういうレストランが無いのかなぁ?あれば毎日通うのに!」
ミリアムが言うと、
「アザリスは水が悪いっていうね。そのせいでどんな美味しい素材もどこか臭くなってしまうんだ、って。」
リチャードが残念そうに答えながら、せっせと海老の殻をむいては、ミリアムのパエリアの取り皿に置いていく。
アザリスの貴族社会のマナーに従い、ムール貝の殻やオマール海老の殻を取るのはもちろん、ピザを切り分けるのまで、リチャードもアクセルも一切女性陣の手を煩わせることはなかった。
しかし、平民であるリンにとってはそれは耐え難く違和感を感じることだった。ましてや、今まで年少の子供達の世話ばかりしてきたリンは、自分がそういった事をしてあげたことはあっても、してもらったことなどない。更に、いくら同じテーブルについているとはいえ、ミリアムと違って自分は貴族階級に属しているわけではない。そんな自分まで、まるでおなじ階級の女性扱いしてもらうなんて、ひどく居心地の悪い気持ちがする。
しかも相手はディスカストス侯爵閣下なのである。そんな雲上人にまるで傅かれるような扱いを受けるなんて!リンは慌てて固辞しようとした。
「かっ・・・アクセルさん、自分でやりますから、どうぞお気遣いなく。」
リンはアクセルの手元からエビの皿を奪い返そうとしながら言った。
「いいんだ、リン。これは男性の仕事なんだから気にすることはない。」
そう言いながら、アクセルは慣れた手つきで殻を剥いていく。
「リン、こういうことは男性に任せるのがマナーなのよ。気にする必要はないけど、もしも感謝の気持ちを示したいのならそう言えばいいし、それでも気が済まないのなら、キスの一つもすれば良いのよ。ね?お兄様?」
年下の親友の、その可愛らしい困惑顔に母性本能をくすぐられたミリアムが助け船を出す。
それに答えて、アクセルも手を休めないまま、リンに無言で微笑みかけた。
無論アクセルに異存はない。無意識ではあるが、そんなふうにリンの世話を焼くことに気持ちの沸き立つ思いもする。
ディスカストス兄妹の共同戦線に困り果てているところに持ってきて、更にリチャードまでが加勢に参加した。困り切ったリンの目前で、リチャードは手ずからむいた海老を更に載せるのではなく、なんと、ミリアムの口元に直接差し出したのである!しかも、ミリアムはそれを当然のようにパクリと食べてしまったのだった。そんな二人の仲睦まじい様子を微笑ましく眺めていたリンだった。しかし次の瞬間、急に恐ろしい事に思い至り、恐る恐る横にいるアクセルを窺った。
すると、まるでそれを待っていたかのように悪戯っぽく微笑むアクセルがリンの口元にエビを指しだしたので、リンはこれ以上ないというほどに赤面して固まってしまった。
「ア、アクセルさん!私は子供じゃありません。フォークも使えますし。」
「うん、知っている。さっきから上手く使っていたね。」
「ですから・・・!」
「リン、早く食べてくれないと、手が空かない。」
「・・・今はエビを食べたくありません!」
ところが、アクセルはエビを引っ込める事もせず、いたずらっぽく笑いながら、より一層リンの口元にエビを近づけて言った。
「折角むいたんだからすぐ食べた方が美味しい。ほら、口をあけて?」
(なぁに、これ?もう、子供扱いして!)
明らかに自分をからかっている様子のアクセルの表情に、一瞬、腹を立てたリンだったが、すぐに思い直した。
(ううん、閣下は私をからかってるんだわ!よーーし、見てなさいよ!こんなことでどぎまぎしたところなんて見せないんだから!)
昔から変なところで負けん気を見せるリンである。今まで数多とったそんな可愛い行動が、実はリンに恋する少年達の恋心に余計な油を注いでいたなどと知る由もない。
リンはアクセルの方へ向き直ると、エビを差し出していたその手を逃げられないよう両手でギュッと掴んだ。
(えっ?)
思いも寄らないリンの行動に、驚き固まるアクセルを尻目に、リンは海老をその指毎パクリと口に含んだのだった。
(!!!)
そうしてアクセルの指先をちゅっと音を立てて吸い上げながら唇を離すと、ニヤっと笑って言った。
「うん、美味しい。アクセルさんの言ったとおりやっぱりむき立ての方が美味しい。指先についていた殻の旨味もいただいて、余計に美味しく感じました。」
してやったりといった表情でそう言いながらも、リンはたった今自分が吸い付いてしまった侯爵閣下の指先を洗う為に、フィンガーボウルに入れようとした。
ところが、それを拒むかのようにアクセルはリンの手の中から自分の手を取り戻すと、おもむろに新しいエビをむいて、唖然として眺めているリンの目の前で、それを自分の口に入れたのだった!もちろん、指先込み、である。
そうして、口に含んだ指をことさら強調するように、一本ずつチュっチュッと順番に吸い上げながら取り出すと、甘くセクシーな目つきでリンに流し目をくれながら微笑んだ。
「そうだね、指毎食べた方が確かに美味いな。もう一匹どうだい?リン?」
ここまでされてしまえば、もう、真剣な恋愛関係は皆無でも、恋愛遊戯では百戦錬磨の強者であるアクセルに、リンが叶うはずもない。
「・・・スミマセン、閣下。私が悪うございました・・・普通に、普通に殻をむいた後、こちらの小皿に載せてくださいマセ・・・。」
参りました、とばかりに頭を下げる耳まで真っ赤なリンを見て、ミリアムとリチャードが噴き出した。
「アハハハハ!さすが、さすがだわ、お兄様!アハハハハハ!」
「してやられたね、リン!あっはっは!」
「見た?さっきのお兄様のしたり顔!あーもう、可笑しい!」
「リンだって健闘したよ!アクセルさんの指先をしゃぶるなんて、勇敢な行動に出るなんて、僕そんな女性初めて見たよ!」
「そうね、リンがお兄様の指先を口にくわえた時は、なんだか私ってば・・・ゾクゾクっとしちゃったわ!」
「わかるわかる!僕も背筋が痺れたよー!その上、チュって音まで立てたろ?あの瞬間のアクセルさんの呆けた顔!!見た?ミリアム!」
「見た見た!お兄様のあんな顔、生まれて初めて見たわ!すごいわリン!」
「・・・。」
はしゃいでいる二人を尻目に、恥ずかしさのあまり顔を上げられないリンである。そしてそんな可愛らしいリンを見ながら、ことさら大きな音を立てて、チュッと指を吸ってはエビを食べ続けているアクセルだった。
次の瞬間、
「・・・プッ!・・・アハハハハ!」
と我慢できなくなって、リンが噴き出す。すると、アクセルも澄まし顔をやめてニッコリと笑った。
そして、この時、自分とリンの距離が縮まったことを、アクセルは確信した。目尻に涙を浮かべて苦しそうに、しかし楽しそうに笑い転げるリンのその表情には壁も隔たりも全くなく、心の底から楽しんでいることが感じられたからである。
やがて4人の屈託のない笑い声は雲一つ無いデューランズの夏空に響いていき・・・。運河の風に乗ってどこまでもどこまでも広がっていったのだった。




