31.突然のプロポーズ
あれから3日。
ドクター・ブルームの学会アシスタントという怒涛の3日間を終えた時、リンの足は鉛のように重く、また、その頭脳は焼き切れる寸前のハードディスクのようにクタクタになっていた。
人手不足のドクター・ブルームの発表チームにおいては、本来ならば秘書がやるべきことまでがリンとブルーム家の執事であるミスター・ケントの肩にのしかかった。
この3日間というもの、リンはドクター・ブルームに常に付き添い、ミスター・ケントと手分けしてありとあらゆる手配に走り回った。
食事や飲み物の手配、会食や会合のスケジューリング、ちょっとした調べものにプレゼンテーションの作成や手直し。普段は貴族らしさなどその不遜な態度くらいしか見せないドクター・ブルームなのに、学会の場では普段の余裕が無くなってしまうのも手伝って、その物言いや要求はまるで専制君主のようだった。
リンは何度『できません!』と言いたくなったか知れない。しかし、ミスター・ケントのあまりに献身的な態度に絆されてしまい、結局彼と2人でいつにも増して要求の多くなったドクター・ブルームの世話に奔走する羽目になってしまったのだった。
「お疲れさまでした、ミズ・バクスター。」
「お疲れさまです、ミスター・ケント。」
ドクター・ブルームを飛行機に乗せ、空港出発フロアでコーヒーショップの椅子に座った時、リンは心底ホッとした。が、そう言った途端に、もしかして今頃飛行機の中でドクター・ブルームが『アレを忘れた!執事を呼べ!飛行機を止めろ!』と叫んでるかも?アナウンスで呼び出されたりして?という考えが浮かんで、リンは思わず頭をフルフルと振りながら、目の前のコーヒーに口を付けた。
そんなリンの様子を微笑ましく見遣りながら、
「大丈夫です、旦那様は飛行機に乗ると、ものの3分で寝てしまいますから、いくら文句を言いたくてもいくら何かを思いだしても気付いた時にはアザリスの空の下です。」
と、ミスター・ケントは飄々と言った。白い口ひげの下から覗く口元には紛れもないいたずらっぽい笑みを見せている。
ミスター・ケントはドクター・ブルームに仕える執事で、父親が先代のブルーム伯爵の家令筆頭執事をやっていたとのことで、親子2代に渡ってブルーム伯爵家に勤めている。50代半ばだというその物腰は、ディスカストス侯爵家のグッドマンに比べると、格段に当主に甘い、というか絶対服従というか、とにかくドクター・ブルームがあんなに気ままな性格になったのは、ひとえにこの執事が彼を甘やかしたからなのではないか?と、リンは密かに思っていた。それほどこの3日間のドクター・ブルームへのミスター・ケントの尽くしっぷりはすごかったと思う。しかもそれをかなり冷静に飄々とやってのける有能さもあり、同じレベルの仕事ぶりを暗黙の内に要求されたようで、益々大変な思いをしたリンなのだった。
「はぁーーー・・・。」
疲れ果てたリンがようやく安堵のため息をつくと、ミスター・ケントは微笑みながらリンを労った。
「本当によくやってくれましたね、ミズ・バクスター。このまま私と一緒に旦那様の秘書業務をずっとやってもらいたいくらいです。」
あくまで冗談っぽさを滲ませながら、ミスター・ケントは言った。きっぱり断るのも気が引けたリンは、曖昧な笑顔で話題を変えた。
「ミスター・ケントはすごいですね、ドクターの要求にきっちり応えて。今までこうした学会アシスタントって、ずっとお一人でこなしていたんですか?」
「いえいえ、毎回少なくとも5人はアシスタントを雇ってました。ミズ・バクスターのほうこそ、すばらしいお働きでした。」
リンはビックリして目を見開いた。
「ご、5人・・・?!」
「なにせ、ミズ・バクスターは、今回5人分の働きをお一人でこなした、というわけですからね。
旦那様から、今年は学生を1人しかチャーターしなかった、と聞いて、どうなることかと心配していたのですが・・・。
いやはやなんとも。
烏合の衆を人海戦術で動かすよりも、本当に気のつく優秀な人材に少数精鋭でやってもらったほうが、やっぱり、仕事はスムースに運びますね。助かりました。」
(ドクター・ブルームめ~~~!!)
リンの脳裏に恩師の取り澄ました、平然とした顔が浮かんだが、すでに全ては過ぎ去ってしまったことである。リンは臍を噛むことしかできない。
「というわけで、航空券の代金を含め、5人分のお給金を指定の口座に振り込ませていただきました。のちほど、ご確認くださいませ。」
ミスター・ケントはそう言ってニッコリ笑った。リンは内心
(5人分はもらいすぎじゃ・・・。いったんは断るべき?)
とも思ったのだが、ドクター・ブルームに腹が立ったので、今回はあえてもらっておくことにした。それに、いちいちそれを目の前の食えないタヌキ執事に返金を認めさせるよう説得するための気力も体力ももう、残っていない。
「・・・ありがとうございます。」
色々な心情を飲み込み、リンは一言、礼を言うに留めた。
そんなリンの顔にミスター・ケントは満足そうにニッコリと頷き、クラブハウスサンドイッチを勧めてくれたのだった。
*-*-*-*-*
その後、二人はそのまま大学までとんぼ帰りすると、黙々と臨時オフィスの片づけをした。
と言っても実際にはミスター・ケントが手慣れた様子で業者や大学関係者にあれこれ指示するだけで終わった。
小さな会議室に設えられたPCやマルチ・ファンクション等のIT機器はすべてアザリスから持ち込んだものだったので、ここに運び込んで開梱し、設置までしてくれていた専用の運送業者が、これまた元の運搬専用ダンボールにあっという間に梱包して運び出してくれたのだ。リンが手を出したのはケーブルを抜くことくらいである。
一方、机や椅子はというと、元々この部屋に設置されていたものは元の状態に戻し、臨時に運び込んだものに関しては、大学の職員とアルバイトらしい大学生数名がやってきて、あっという間に運び出してくれた。
そんなわけで、早朝の空港で虚脱しながらコーヒーを飲んだおよそ3時間後には、全ての作業と撤収が完了したのだった。
「これで全部終わったようですね。」
ミスター・ケントが言う。リンは部屋の隅っこで一つだけ落ちていた紙くずを拾い上げながら、振り返った。
「そうですね。」
「時に、ミズ・バクスター、この後ランチなどどうですか?」
「ありがとうございます。でも、すみません。先約がありまして。」
「ほう?そうですか。もうデューランズで友人ができましたか?」
「いいえ、違うんです。カレッジの友人がバカンスでこっちに来ていて。誘ってくれたものですから。」
「おお、それは良かったですね。私も心おきなく旦那様の元に戻ることができます。」
どうやらミスター・ケントは一人っきりになるリンを心配してくれていたらしい。
「お気遣い、恐れ入ります。」
リンが礼儀正しく挨拶を返すと、ミスター・ケントはなんとも嬉しそうにそれを見守って言った。
「礼を言うのはこちらのほうですよ、ミズ・バクスター。旦那様のワガママと途方もない要求にここまで完璧に応えた学生はあなたが初めてです。」
ドクター・ブルーム、もとい、ブルーム伯爵、ルシアン・コンラッドを見守り続けてきたこの忠実な執事は続けて言った。
「時に・・・そのお友達というのは女性でございますか?」
「え?・・・ああ、はい。」
(どういう意味だろう?)
怪訝な表情で首をかしげるリン。と、
「ミズ・バクスター、失礼ですが、どなたかおつきあいされている男性はいらっしゃいますか?」
ミスター・ケントが畳みかけるように問うた。
「・・・いいえ。」
益々わけがわからない。しかしなにやら嫌な予感がした。不作法だとは思いつつも、ミスター・ケントの奇妙な問いかけを流して、手近に置いてあったバッグを手に取るリンである。時計はすでに11時を指している。11時半に、大学の正門前の車止めでミリアムと待ち合わせしているのだ。
「ミスター・ケント・・・。」
暇を告げようとしたリンを遮るようにして、ミスター・ケントは言った。
「それでは・・・、どうでしょう?ミズ・バクスター、旦那様との結婚について考えてみてはもらえませんか?」
「・・・は?」
リンは驚きのあまり固まってしまった。
「決して悪いお話ではないと思います。旦那様は御歳38歳。年齢は、まぁ少々・・・離れていらっしゃいますが、ブルーム伯爵家は国内有数の資産家ですし、研究の助手として雇用も保証できますし。
なにより、あの好き嫌いの激しい旦那様が、ミズ・バクスターには随分と心を開いておいでのご様子でした。この3日間、ミズ・バクスターのお仕事ぶりと旦那様への応対の様子を観察させていただいて、これは、と合点がいったのでございます。」
「ちょ、ちょっと待ってください、ミスター・ケント!!」
「旦那様はああ見えて愛情深い方でございます。ミズ・バクスターはそんな旦那様を理解してくださっているとお見受けいたしました。」
(この人、大真面目な顔して、いったいなんて事を言い出すの?!)
「ドクターのことは尊敬はしています。けれども、それはあくまで研究を通して、恩師としての感情であって、好きとか嫌いとか、ましてや結婚するとかしないとか、そういうことは、まったく考えられません!」
リンは叫んだ。
しかしミスター・ケントはそれを笑顔で完全に無視して、更に言葉を続けた。
「それでしたら、今、ここから考えていただけますようとお願いいたします。
ご身分に関しても気にする必要はございません。旦那様はもちろん、当家のご当主様は、代々、そういったことに無頓着でございますから。
ルシアン様のお母様は先代の伯爵様がスキーで足を骨折した際にお世話いただいた看護師を務めていた方でしたし、その2代前、ルシアンさまの曾祖母に当たる方は、当時のご当主様が血道を上げていた競走馬の繁殖に携わっていた当家の厩舎を管理する一族の出でした。いずれも平民階級です。」
ミスター・ケントは正にドクター・ブルームの忠実なる執事であり、一番の家令であり、また、懐刀であった。この10年というもの、彼の一番の懸案は、伯爵家の跡取りを得ること、つまりはその前段階にあたる主人の婚姻であった。しかし、彼の主人は大学という象牙の塔に引きこもり、滅多に『現世』には出てこないばかりか、社交界の活動にも一切顔を出さない。
無論、結婚とか女性とかにまったく興味を示さない。これでは子作りどころか結婚も危うい。
念のため、ミスター・ケントは一度思い切って彼の大切な旦那様に『同性愛者なのかどうか』を確認してみたことがある。すると、なんの感慨もなさそうに、『昔プレップスクールで上級生に迫られたことはあるが、自身の性指向はあくまでヘテロである』、と言っていた。それならば何故女性を相手にそういった関係を築こうとしないのか、と問えば一言『面倒だ』と一刀両断にされてしまった。そもそも生殖能力があるのかどうかについても、確認のしようがないので不明である。
(しかし!!この3日間の旦那様は大変、上機嫌でした。誰にもそうとはわからないでしょうが、この私にはわかりましたとも!その上機嫌の理由が!!それはミズ・バクスター。彼女の存在に関わる時、旦那様の表情は柔らかく、繊細に変化していらっしゃった!)
ミスター・ケントにとって、もうそれだけで十分、彼の奥手な(?)主人に成り代わって、リンに結婚を申し込むに値することなのである。主人がまだ口に出さない欲求を感じ取り、汲み取ってその実現の為に動く。それがミスター・ケントの『執事道』だった。
(旦那様の中ではまだ『愛情』は自覚されていないでしょう。しかし、この働き者で献身的な女性を好ましく思い、どんな形であれお側に置きたいと思っていることは確実。ならば私の取るべき行動は一つ。)
その点で、ミスター・ケントはディスカストス侯爵家の執事、グッドマンとはまったく違っていた。
まぁ、無理もない。
片や実業界に身を置き、女性陣からの攻勢にさらされ、引く手数多の『魅惑の王子』アクセルと違って、学究界に身を置き、周囲はほとんど男性ばかりというドクター・ブルームはそもそも女性と出会う機会がほとんど無い。ましてや研究に没頭するあまり、身の回りの事柄はもちろん、結婚に関してもすべて面倒くさいと断じてやる気がない。
(そんな旦那様を放っておいたりしたら、永遠にミズ・バクスターを云々という行動になど出るわけがありません!)
「どうでしょう?考えてみてはいただけませんか?」
しかし、あくまで自然体で飄々としたその様子に、どこか胡散臭いものを感じてしまったリンは、自分だけ熱くなるのもバカバカしく感じ、冷静さを取り戻して答えた。
「考えてみるもなにも・・・。
とにかく、今お話しいただいたことはすべてミスター・ケントの気の迷いだと受け取っておきます。
もしも万が一・・・、まぁ、そんなこと起こりっこないと思いますけど、ドクター・ブルームご本人からそういう申し出があったら、その時点で考えることにします。
だからといって、けしかけないでくださいね、ミスター・ケント。」
最初はビックリして思わずくってかかってしまったが、結局最後は思わず苦笑いがこぼれてしまうリンである。そして思わずグッドマンの事を思い出してしまった。
(グッドマンさんも閣下の結婚についてこんな風に心配しているのかな?いやいや、あの閣下に限って、結婚相手の心配なんて、誰ひとりするわけないよねー。)
グッドマンもアクセルの結婚に関しては、人並みに気を揉んでいるが、その思惑の中心にいるのが自分であることなど考えもしないリンである。
「それでは、私はこれで!お疲れさまでした!」
会話の区切りがついたのを逃さず、リンはそそくさとその部屋を辞した。
そして、宿泊施設で荷物を受け取ると、光溢れるデューランズの陽光の下へ飛び出した。
(さあ、バカンスの始まりだわ!)
そうして弾むような足取りで正門へ向かうリンの行く手には、キラキラと煌めく夏の日射しが溢れ、歓迎してくれているようにどこまでも輝いているのだった。




